hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

寂しい

回答数回答 1
有り難し有り難し 13

付き合って8ヶ月ほどの、遠距離恋愛中の彼がいます。
彼は仕事が忙しいのか、私から連絡してもすぐにはなかなか返事をくれないことが多いです。

そんなことが続き、私は彼には必要ないのかな?と思ってしまうことも増えました。
夜になると、さびしくてさびしくて、おかしくなりそうです。

誰でもいいからこの寂しさを埋めてほしいなんて考えてしまう時もあります。
電話で話しても、切れてしまうとさびしくてさびしくてたまりません。

寂しいよと彼に伝えても、特に変化はありません。
自分でどうにかしようと、以前に精神科で処方された心を落ち着かせる薬を、用量を守らずに飲みすぎてしまうこともありました。

どうすれば、この寂しさを自分の中でうまく消化できるでしょうか?

ご回答いただければ幸いです。
宜しくお願い致します。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

待ち受け画面に「寂しい」削除

こんにちは。遠距離サイタマケンより失礼します。
期待、望み、こうしてもらいたい…
これらは、設定、前提です。
いつの間にか脳内設定されているのです。OFFりましょう。
坐禅してリセットして頂けるとこの意味が分かります。
朝目が覚めると、人間は本当はリセットされています。
認識、意識、分別、記憶、これらによって今の状況や立場が自分の脳内で理解されると、そこに判断意識が生じて、彼に会えないという望みがかなえられないことに不満などが生じます。
もともと、付き合う前は赤の他人さま同士。
別に彼だけの彼女でいる必要もないですから、遠くのあこがれより近くの優しい人の方があなたにとっては暖かい存在になるでしょう。
私は彼の彼女、彼は私の彼、というのも脳内設定です。
そこに縛られる必要はありません。
「すき」とかいう気持ちってホント、テキトーな感情です。
世間をご覧ください。
永遠の愛を誓い合って結婚した結果、みんな不倫やら離婚やら。
「すき」という言葉がいかにあてにならんもんであるかという事をよく勉強して頂きまして、安全、安泰、グラつかない、堅固な、安心感のある相手を見つけてみてはいかがでしょう。
連絡してまめに返事くれないというのも返事なのですよ。
ですが、それがその男性という事でもあります。
その後のあなたの中の評価、判断、お裁きがあなたを苦しめているのではないでしょうか。
会えない、は、会えない。
会っていない、は、会っていない。
会いたい、と、会えない、と、会える、と、会いに行く、と、会った、と、今から会いに行きます、と、会っている、とは、それぞれ、別もんです。
あなたが「現実だけに会う」とよいのです。思いに会おうとすると、苦しいです。会いたい、のに、会っていない、会えないのですから。
自分に❝合った❞人を探すか、「現実に会う」ことです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。

お返事頂いてから2ヶ月後の今日。すこし時間を置いて、またご回答を読み返しました。今、すごく理解できるようになりました。現実ではないことばかりに振り回されないように心がけようと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ