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母に不倫をしたと打ち明けられました(長文です)

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はじめまして。
母に不倫をしたと打ち明けられました。

母は父の勤める会社の系列でパートをしています。その職場は、同僚の女性、同僚の男性、母の3人です。

昨年前の方が退職され、今年度新しい女性の方に替わりました。
母はその新しい方と上手くいかず悩んでおり、同僚の男性に優しく慰められるうちに流されてしまった…と。
メールや電話のやりとりはなく、また体の関係もないのですが、ハグやキスをする所までしてしまったそうです。
そしてその現場を、新しい同僚の女性に見られてしまった…と打ち明けられました。
同僚の男性は既婚者、今年度で退職予定とのことです。

母から打ち明けられ、ショックや悲しみでとても混乱しています。
責められて当然ですが、私は今まで苦労してきた、苦労をかけてきてしまった母を責める気持ちになれない部分もあります。

結婚当初から同居し、パートに出ながら家族経営の自営業。
父は精神的に不安定で、職場の人間関係で上手くいかなくなると、その度通院したり、休職。偏った考えをしがちで、言葉は悪いですが、デリカシーに欠けた言動をしてしまう人です。また、早くから夫婦関係は冷えていて、今は家庭内別居のような状態。

父方祖母は気が強く、根に持ちやすい性格で、気に入らないことがあると、母に嫌味を言うこともありました。
私は新卒で専門職に就いたのですが、職場に馴染めず1年足らずで心を病み、退職。療養をしていた時期がありました。

昨年から父方祖母が入退院を繰り返すようになり、同じ時期に今まで母の愚痴を聞いていた、母方祖母が倒れました。私や父、伯母、叔父と交代しながらですが、母は2人の世話を見ています。

現場を見られてしまった以上、噂が回るのは早いですし、これからどうなるのか分からないですが、どんな母でも私の母だ、と今は思っています。
でも、これから私たちはどうなるのだろう、時間が経つうちに母を許せなくなる時が来るのでは、とも思っています。

また私には交際中の彼がいて、結婚の話が持ち上がっていました。彼の父と私の父・父方祖母が古くからの付き合いです。迷惑をかけたくないからもう一緒にはいられないな、と思っています。

この話は墓場まで持っていくつもりです。これから私はどのように自分と向き合って、生きていけばいいのでしょうか?
長くなってしまいましたが、よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まず、お母さんもさびしかったのでしょう。
お父さんに頼りがいがあって、お母さんにもっと優しければそんなこともなかったと思います。
相手の男性だって悪いのです。
世の中、成り行きで道を外してしまう人は多いものです。
個人の心理を慮りますと、お母さんは誰かに優しくされたい気持ちがあったということではないでしょうか。
ですが、あなたにきちんとそのことを話したということが、お母さんの誠実さです。
お母さんはきっと自暴自棄になっておられるでしょうから、こう言ってあげてください。
「さびしいと、そういう気持ちにもなるよね。」と。
世の中、結婚というシステムがなければ、いろいろな異性を求めるものです。
それを理性として保っているのが人間であり、道徳・倫理・宗教心です。
お母さんはあなたに話して懺悔の気持ちもあったのだと思います。
簡単に言えば「人は優しさを求めてしまうもの」なのです。
お父さんも、お父さんの家族もお母さんに厳しかったのでしょう。
お父さんとの冷めた関係もつらいのでしょう。
人は寂しさを埋める方法として人を求めてしまうことで、永遠に孤独から解放されることがありません。
仏道・仏教とは自分自身を明らかにする道です。
自分のエゴや我欲を離れ去った事故を知れば他人を求めることはありません。
自分自身が最高の伴侶になるからです。
あなたは異性とかかわっていく際に、そういう強い自分を自分の中で発見してからおつきあいすると、失われはありません。
仏教というものは他人事や、宗教宗派に所属している人だけのものではないのです。
人間が人間のまま無宗教かつ自己中心的な生き方をしていると人間はいつか壁にぶち当たるのです。すべての人が学ばざるを得ないのが自己です。
自己を明らかにするのが仏教ですから、これは他人ごとではないのです。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答頂きありがとうございます。
お礼が遅くなり、申し訳ありません。

母は寂しかったんだなと思って、回答を読んでから涙が止まりませんでした。
何度も何度も読み返しました。

「人は寂しさを埋める方法として人を求めてしまう」とありますが、その方向が家族に向かなかった、母を受け止めることが出来なかったことが、とても胸が痛いです。
母の話を聞いて、たくさん話す時間を作って、母に寄り添っていきたいと思っています。

また、今回のことはやはりショックが強くて、自分自身受け止めるのに時間がかかりそうです。
日々生きていく中で自分と向き合いながら、今回頂いた回答を大切にしていこうと思います。
また苦しくなった時に投稿するかもしれませんが、その時はよろしくお願いいたします。

この度は本当にありがとうございました。

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