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毎日が不安で落ち着かない時

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有り難し有り難し 14

はじめまして、これからの自分と、周りとどう向きあっていくべきかのご相談で投稿致しました。
私は訳あって、転職回数が多く、10年近くに渡り、一人で仕事をしてきました。一人暮らしも数年経験しましたが、現在は同居しています。
唯一本音で会話ができるのは母親のみです。
この度、新しい会社へ勤め始めて3ヶ月経過しましたが、毎日、不安な気持ちが甦り、心が落ち着かない日々を過ごしています。
思い当たる要素としては
・職業の周囲の目が気になり、会話においても、自然と気を使ってしまい、本心が出せない。
・勤務先の仕事を覚えていけるか
・先日、転勤の内示を出され、いつ戻れるか分からない異動への心構え、転勤先となるより大人数の環境で、日数の浅い自分がどう使われてしまうのか。

他、考えれば他の不安が出てきますが、現在の大きなネックは転勤への心構えです。これから頑張らなければと思いつつ、何が起きるか分からないという不安が甦ってきます。

このような性格になったのも私自身が大人しく、相手に対して本音を出せない、相手を尊重し過ぎる所から来ていると思います。
また、自分にとって居心地の良い一人の環境、仕事を選んできたこともあります。

まもなく40代を迎えるに当たって、新しい環境、出来事が多々襲いかかってくる生活にどう立ち向かっていければ良いのか、アドバイスを頂けますと幸いです。

備考
現在独身で交際者はおりません。
家族について、兄がいますがコミュニケーションがうまく取れず、自分の性格を知っている成果、距離を取られてしまいます。
母親とは意思疎通が取れていますが、高齢になるため、自分の心配が種で心労を重ねたくない
ため、最近は会話も控えめになっています。

宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心の独り言を控える

「誰」を相手にしゃべっているかを、よく見きわめる必要があります。
全部ひとりごとなのです。
独り相撲。
誰もそんなこと思っていないし、あなたのことなどあなたが思っているほど気にもしていないのに、あなたが人の目を過剰に気にしてしまうだけなのだと、よく自覚されてから、実際にその相手の実際の動きをよく見てみることです。
全部自分の心の中の独り言であることに気づくことは大切なことです。
鶏の前に鏡を置くと敵だと思って争い始めることがあるそうです。
人間も同じように、絶対に他人だと思っているものが実は自分であるということがあります。
よく、自分を見つめてその正体は確実に自分の思いであるという答えがすでに出ているのですから、その答えを明らかにするべく、自分の思いでしかないということを確認してみると人生が変わります。
あなたがあなたの思いを気にしなければ、あなたはあなたの思いに縛られたり、苦しめられることが無くなるのです。
問題は相手ではなく、相手だと思ってしまっている自身を誤認しているあなたです。
自分が誰かを気にしている時、その相手というのは9割がた自分の中の相手への思いでしかないことを明らかにしてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
頂戴しました回答を暫く反芻し、向きあっておりますと、根源は自分の思い込みで、長くなるにつれて不安が起こり、振り回されているのではないかと。
これまで取り越し苦労で深く悩んでいた事が、実はそれほど大した事ではなかった出来事を思いだしました。
これからは相手の動きを良く見ていくとともに、自分は周囲にどう見られているか、先々のことを想定する抗力にとらわれないように、自分自身に軽快に向きあっていこうと思います。

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