hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

直感

回答数回答 1
有り難し有り難し 6

 最近、ついてないことばかりで、不安ばかり先行してしまい前に進もうという気持ちがおきません。
 例えば、何かをしようと思うのですが、それを行えば嫌なことが起きるという直感?みたいなものがはたらき身動きがとれなくなってしまっています。
 実際、「直感」というものは存在するのでしょうか?また、そのような不安にかられた場合どう対処していけば良いのでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それは直感ではなく警戒心

2度、3度、4度と不運が続くと、人間、防衛反応が現われます。
そのような事をもう味わいたくないという、守りの反応が現われるのです。
ですから、それは直感ではないと思って良いでしょう。
それからもう一つ。
その出来事は、自分にとっては不幸、不運であっても、他の人にとっては何でもなかったりする。
ということは、絶対的な不運不幸は存在しないという事です。
たとえば、フラれた、電車に乗り遅れた、雨に出くわした、これは不幸かといえばそうでもありません。
フラれることによって、より良い人に出会えた。
乗り遅れたとしても、電車の中でいいアイデアがひらめいた、
雨に濡れたが、雨の日セールで安かった。
転んでも、転んだことで傷つかないことです。
もしくは、ただ転べるようになることです。
ただ、転ぶというのは、転んだら転んだという出来事を授かったままにするという事。
そこに余計な私見を交えない。「ついてない」とか余分な事を思うからあなたは、自分のその思いで傷ついているだけです。泣きっ面にハチ。さらに、そこに追い打ちをかけているのは自分の思いです。
刺されたら、刺された、ということだけ。
転んだら、転んだ、という事だけでいることです。
「ああ、そこに余計な思いを足していたんだなぁ、それで不運にしていたんだなぁ」ということに気づいてください。
そうすれば、出来事には善し悪しも、不運不幸もついていないという悟りのビジョンが手に入るでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ