自分のみにくさ
はじめまして。
僕は自分の性格に悩んでいます。というのも、僕は他人に批判されることが怖くて仕方ありません。自分の欠点や間違いを指摘され、耳の痛いことを言われることが恐ろしくてたまらないのです。そんな心の弱さをかかえるばっかりに自分を叱ったり、非難する人間を恨みつくす始末です。
例えば、この前僕は通院先の医者の先生に「人が怖い」と相談しました。すると先生は「君は社会をなめている」と答えました。僕はショックであるとともにその先生を激しく憎みました。死んでしまえとすら思ったほどです。
もちろん、自省しました。先生に言われたことは事実なんだから、まずそれを受け入れろ、と自分に言い聞かせ続けました。しかし頭で分かっていても心はどうしても納得してくれない。心の奥底では「そんなことを言う医者がわるいんだ!」と思ってしまっているのです。
結局、先生に対する逆ギレ的な怒りは収まらず、まだくすぶり続けています。
相談というのは、僕のこのどうしようもない心の醜さと別れたいということです。つまり、耳の痛いことを言う人間を恨んでしまうこと、己の欠点を認めたふりして心の奥底で逆ギレすること、そんなことを言う相手が悪いと心底思ってしまっていること。要するに自分への批判を一切許さない心の狭さです。
読みづらい文章で申し訳ありません。こんな自分を変える方法はないでしょうか。
自分の欠点が許せない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
弱さを変えなければいけない、という思い込みをまず変えましょう
ご相談読ませていただきました。
自分の弱さや醜さ、欠点を認め受け入れるというのは、確かに難しいものです。
原因は、羽虫源左衛門さんの内側にも、外側にもあります。
まず外側からいきましょう。
間違いや欠点があるということは、「正しさの基準」がどこかにあるからこそ、そこから外れたものが批判されるわけです。
しかし往々にして、正しさや良いことというのは、個々の勝手な判断でもあります。
たとえば今年の夏は涼しくて良かったという人もいれば、農作物の日照不足で苦労している人もいたり、水害で困っている人もいます。
そんなことでは困るとか、それは違うとか、それはあくまでも「その時の立場や状況から言われている」ことも少なくありません。
立場や状況などは時と場合で変動するもので、要は、「誰もが共有できる正しさ」なんてものは、案外と少ないということです。裏を返せば、誰かがいう「間違い」だって、決して絶対的なものではないのです。
それを踏まえたうえで、次は内側の問題です。
まずひとつ、「かくあるべし」という社会の言葉、世間の言葉に、囚われ過ぎないようにしてください。上でも述べたように、それが正しく見えることもあれば、誤って見えることもあります。
誰かが「指摘した事実」と「それが正しいか間違っているかという判断」の間に、一呼吸おいてみましょう。
たとえば、「何か長いもの」と「何か短いもの」があります。さて、どちらが優れているでしょう?
そんなことはわかりません。
長いものが欲しい人はそっちを良いものとするし、逆も然り。
人が怖いということを、人間関係が苦手と見るか、あるいは臆病だけど慎重と見るか。
判断する側の都合で、良くも悪くも簡単に印象が変わってしまいます。
何か言われたとて、それが欠点の指摘と即断するには早計です。
怒りっぽいのは、譲らぬ強い信念を持っているからかもしれない。
激情的なのは、胸の内に大きな思いを秘めているからかもしれない。
それは、弱さでも醜さでもありません。
批判への反感は、貴方なりの正しさを持っているが故です。
他人への憎まれ口だけでなく、自分の信じる正しさを自分の中で言葉にしてみるものいいかもしれませんね。
そしてもう一つ。他人が正しいこともあれば間違えることもある。
ならば自分だって、正しいこともあれば間違えることもある。
それもお忘れなきよう。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
なんだか視野を広く持てました。