関わりたくない人
昔、職場が一緒だった人がいます。
5歳年上の女の人で、その時から苦手なタイプの人でした。
直感的に相性が合わない感覚でした。
その人といると、緊張からか恐怖からか、自分が自分らしく振る舞えず、普段の自分だとあり得ないミスをしたりしました。
表向きは親切で、向こうから話しかけてくれたり、仕事の面でもフォローをしてもらったりしましたが、裏では影で文句を言われたり、嫌みを言われたり、その人が主導だと分からないように仲間外れにされたり、こそこそ笑われたり、他にも軽い虐めのようなことをされていましたが、その職場を辞めるまで気づかないふりをしていました。
そして去年、ある場所でその人と再会して、その時のことを遠回しに謝られました。
謝られたというか、言い訳されました。
「そんなつもりはなかった」とか「別の人が主導して、私はしょうがなく…」「私が止めていれば…」とか、はっきりとは言われませんでしたが、「自分は悪くない」、そうとしか聞こえませんでした。
私は幻滅しました。
確かに相性は合わなかったし、虐められたし、嫌な思いもたくさんしたけど、それはその人なりの理由があって、私にも悪い所があって起きたことなんだと納得していました。
それを何年も経って、言い訳されて、さも「自分はいい人ですよ、あなたを裏切ってはいませんよ」と表された時に、『ああ、この人は私に許されたいんだな。そして許されないといけないことをしたと自覚しているんだな。でも謝らずに、許されているか確認したいんだな。』と分かった時に、なんだかその時のことを初めて許せなくなってしまいました。
その人と会うと、自分のペースが乱されます。
決まって悪いことが起きるというか、自分らしく動けないので、とてもストレスが溜まります。
私はどちらかというと、今までの楽しかった事や、これからの楽しい事を話したい方ですが、その人の話す事は今や昔の自分の不幸話や愚痴ばかりです。
正直、重いです。
その人の言葉のひとつひとつが重く感じます。
不平不満も全部自分の事を言われているみたいで、会話する度に傷つきます。
人と人は支え合って生きていく、とは良く言いますが、関わらなくていい人もいますよね?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
善い友と交われ。尊い人と交われ。
世の中において、あるいは生きている全ての人において「関わらなくていい人もいる」と定義する必要はないでしょう。
あなたが生きている目の前の「あなたの事実」として、その人と「関わらない」ということは問題ないと思います。人間合う合わないがあるもんです。
関わらなくてすむなら関わらないようにしましょう。
どうしても関わらなければいけない部分があるなら、上手くやり過ごせる方法を見つけましょう。
でも、ある時ふと気がつけば、その人に限らず「関わりたくない人」が自分の周りに増えて生きづらくなってきたなと、もしも感じることがある時は、自分の在り方を振り返りましょう。
今は自分を守るために、関わらなくてすむなら関わらなくてよいのではないでしょうか。
関わらないでみて、もしも逆に関わらないことであなたの中で消化できない思いが渦巻いてくることがあるならば、その時にまた関わりをもって思いをぶつければよいでしょう。
「悪い友と交わるな・卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。」(ダンマパダ78 中村元訳)
とは仏陀釈尊のお言葉です。
どうぞご自愛ください。
質問者からのお礼
吉武文法様
お礼が遅くなり申し訳ありません。
ご丁寧な回答に心から感謝しています。
回答を頂いてから、
関わりたくないその人とは
うまく距離を置くことができました。
今後、自分の中で迷いが出た時は、
またこの回答を読み返して
自分の気持ちと向き合いたいと思います。
本当にありがとうございました。