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男性に軽視されないためにはどうしたらいいですか。

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ある男性に、平気で下ネタを言われたり、(ある程度はかわせるのですが、気分が悪くなるくらいの内容を私が存在していないかのように男同士で話されたこともあります。)
また、お前はタイプじゃない、クズ、精神年齢が低いと相手は冗談のように言っているのでしょうが、すごくしんどい思いをしています。

向こうが都合のいい時だけ、頼られるのにもうんざりしました。
質問に答えたり、何かを貸したりする断れない自分にも嫌になります。

さらに、別の男性には、デートに誘ってものらりくらりとかわされたり、挨拶しようとしても、別の女の人と話されたり、買い物の会計時に一緒にいてる友達にしか目をあわそうとされなかったり。

言いだすときりがありませんが、あーあ、、またかと辛いです。

容姿は、悪いので仕方ないと思いますが、最低限軽視されたり、都合のいい女に思われないためにはどのようにしたらいいですか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

軽視しない人こそあなたの真のパートナー

男性女性に限らず人を軽視する人は一緒に居て嫌です。
そういう人間とは適切な空間的距離と精神的距離置いて付き合わなければよいのです。
ただ別に、すべての場合においてあなたを軽視しているわけではないでしょう。
グループの構成、立場上話の流れからいじられやすいポジションにいるということもあると思います。
軽視という意味を基準に観ない方がいいと思います。
逆にそういう機会で面白いことを言って前に出ていく姿勢も必要です。
人間の究極の尊厳とは自心の本当の静まりだと思います。
本当に自分が鎮まると、その軽視だ、なんだという考え方も小さなことに感じるようになれます。考えやアタマ越しに物事をみないようになるからです。
あなたの呼吸は誰も否定はできません。
あなたが存在していることも、あなたが世界を映しだしていることも、聞こえていることも。
すべて、あなただけの世界です。あなた独自の生命です。
呼吸一つだって誰ともかわることはできないのですから。
だから、あなたはまず本当に自分自身を生きてみるといいと思います。
まわりに迎合したり、無理に合わせても自分に嘘をつくようなものです。
あなたがあなたのいるところで行動をして、あなたがあなたの納得のいく自分になる。
そして、あなたがあなたの理解者・共感者を見出す。
この自分自身は自分自身だけのはたらき。今後も自分の心との決別は出来ません。
だからこそ、自分が自分をいじめたり、さげすんだり、卑下したり、要らぬ謙遜で自分を下げるようなことはおやめください。
自分が自分を軽視しないことで、まずあなたはあなたの尊厳・強さがうまれる。
このお悩みでも、すでにそこが始まっていたはずです。
でも強くあったとしても、謙虚さは忘れない。
謙虚さを持っていても、強さも忘れてはいけません。
小池都知事さんだって、多くの男性政治家は下にみようとします。
ところが、実績や行動力ははるかに何もしない政治家よりも上です。
政治だって、ただ政治をしていれば政治家なのかといえばそうではありません。
自分の事しかない政治家は、自分屋です。
人間も誰であっても自分自身が自分自身の統治者であり、為政者であり、医師なのです。
今後は、そういう時にネガティブな方向へ進ませないようにしてみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
自分のことを軽視していました。 自分で自分の首を絞めていたのかもしれません。

「人間も誰であっても自分自身が自分自身の統治者であり、為政者であり、医師なのです。」という言葉がとても印象に残りました。 しんどい時は、自分を苦しめるのではなく、癒してあげようとおもいました。

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