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怖い経験をしそうな時の対処法はありますか?

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初めて質問させて頂きます。

私は、子どもの頃から不思議な経験をする事が多々ありました。
10代の頃に、友人の勧めでお寺に通ってからは、ほとんど無くなりました。
身も心も健康に過ごしていれば、変なものは寄ってこない!と心がけて生活をしていますが、それでもたまに怖い思いをする事があるので嫌です。

一番嫌なのが、旅先のホテルで就寝時に変なことが起きることです。全く違う場所で、全く違うホテルなのに、同じ経験を同じ時間帯にする事があります。眠りに就こうとすると、ハイヒールの足音が聞こえてきます。無視して眠りに就こうとすると足音が早足になり枕元まで来て強く足踏みをします。だいたい深夜1:00〜3:00過ぎまで続きます。

怖さを紛らわすために、可愛い甥っ子達の動画や写真、お笑いの動画を見たりしますが、旅先で疲れてる時に朝方まで寝れないのは辛いです。

考えないようにしようと思いますが、ホテルに泊まるたびに、思い出してしまって少しビクビクしながら過ごします。

何かホテルに泊まる際に、変なことが起きないように予防する良い方法はないでしょうか?

ちなみにハイヒールの足音に、思い当たる事はまったくありませんし、自宅で就寝時に変な経験をする事はありません。

日本に住んでいた時には、常に神社の清め塩を携帯していましたが、今は海外に住んでいて手元にありません。

何か、良い方法があれば教えて頂きたいです!


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の思いにKAT-TUN(喝)

カツ―ン、カツ―ン。
ヒールの音が聞こえる…。
本当にヒールの音でしょうか。
本当にあなたが恐れているようなものでしょうか。
たとえば閲覧注意な画像やニュースをみて、ショックを受けるメカニズムは、実は自分の思いの側でショックやダメージを受けているのです。人によっては、全然へっちゃら。
それと同様に、あなたが何かの音を聞いた時に、その音に対して二次的にイメージを膨らませている。さらにその音で自分を傷つけている。苦しんでいる。
ですが、実質は、その音がした所で何かが失われたわけでもありません。
不確かな「思い」に、苦しめられただけです。
思いにだまされず、リアルを手に入れてください。(←カツ―ンというヒールの音だけに、喝とkat-tunをかけているらしい)
わたしだったら、懐中電灯を手に真実を確かめます。
思いは、自分が二次的に作り出しているものです。
実に不確かなものです。
自分が生み出した、イメージです。
本当の事実は、カツ―ン、カツ―ンとヒールの音がするだけ。
ヒールかどうかもわかりません。
人は、自分の思いで本当の姿を覆い隠してしまうものです。
思いにだまされなくなることを、自分にから自由になった人❝覚者❞と言います。
仏教とは、自分の思いにだまされなくなる生き方を手に入れる道です。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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