試練の多い人生
はじめまして。お目に止めてくださりありがとうございます。
突然ですが、人生のどんでん返しに何度か遭遇しています。
先日も長年お付き合いしている彼に多額の借金が発覚。正直、またか、と涙も出てきません。
以前の自分であれば落ち込み寝込むところ、
この試練の多い人生は私の宿命なのでは?と、徐々に諦めにも似た受け入れる気持ちも芽生えています。
そこで本題ですが、波乱万丈な宿命、平凡安定な宿命、姉や友の様に若くして亡くなる宿命、
仏様からいただいた命に宿る宿命ってあるのでしょうか?
この歳で周りより苦労が多い中、それでも強く生きていく納得できる意味や理由を求めてしまいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「私の納得」が試練を生む
ご相談拝読しました。これまで大変にご苦労をなさってきたのですね。それでも目の前の事実を受け入れようとなさっていることに頭が下がります。
さて、「試練の多い人生」において「納得できる意味や理由」を求めてしまうとのこと。
それはもっともなことです。人は意味が見いだせないことが何よりの苦痛でもあるでしょう。
しかしここで仏教の智慧から発想の逆転をいただくならば実は
「納得できる意味や理由」を求めてしまうからこそ、「試練の多い人生」に感じられる
ということもあるかもしれません。
なぜならばこの世界は私たちの
・こうであってほしい
・こうあるべき
・こうでなければならない
・こうはあってほしくない
・こうはならないはずだ
といった意味や理由、すなわち人間の「思考」「分別」「価値づけ」とは無関係に
「ただそうなっている-縁(条件)あれば起こり、縁尽きれば滅する―」
という「事実」で成り立っているからです。私たちの納得は常に破られる思い通りにならない世界です。いや、世界だけでなく私たち自身も。
宿命、すなわち運命、つまり、これまでもこれからも全て決まっている、というように仏教では考えません。
縁起-縁(条件)によって物事は起こる(成り立つ)と考えます。
原因があり、条件がととのうことで物事が起きる
この普遍的な事実に自分なりの解釈や意味付けをしてしまうのが人間ですが、そこに目覚めなければ余計に苦しむばかりです。
交際相手の多額の借金が発覚というのは大変にショックな出来事だと思います。しかしそれはりんごさんがそういう宿命を背負っているからではありません。
彼には借金をする原因があってそれを返済する条件をととのえられないままいた。その彼がりんごさんと交際していた。
ということにすぎません。その「たまたま」の事実に色々なストーリーを持ち込んで救われるのならよいのですが、そのストーリーも「私の納得」の範囲内のものであるならば、いつしか納得を超える事実に破られてしまうことになるでしょう。
私たちは人生において起こる出来事は選べませんが、起こった出来事に対し、どういう態度でどういう縁を紡いでいくか、それしかないのでしょう。縁には整えられる(可能性が高い)ものと、そうでないものがありますが、それでもそうするしかないのが人生の事実であると私はいただいております。