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誰彼構わず怒鳴る人

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こんばんは。私は8歳、5歳、2歳の子供を持つ母です。
8歳の子供が入っているスポーツクラブでの事ですが、誰彼構わず怒鳴り散らす保護者が居ます。

コーチも厳しい方ですが、コーチに注意される事なら分かるのと、絶対にコーチは人に手をあげません。勿論イライラされる事も多々あり、理不尽だなぁと思う叱り方(子供にも保護者にも)をする事もありますが、まだ納得出来ます。
しかしながら、その怒鳴り散らす保護者は違います。先日、コーチから我が子に指導がありました。叱られた内容としては、子供が悪かった事でしたし、本人も私も納得していました。

が、その後練習が終わり先に車に乗り、他の車が出て行くのを待っていた所、その保護者が子供のタオルを持って凄い勢いで来ました。何事かと思い、車のドアを開けると、「自分で管理して下さい!!」と吐き捨てるように言い、私の顔めがけてタオルを投げつけました。
唖然とするのと同時に、子供がその様子を見て大泣きしました。
そこまでして傷つけることしか出来ないのかと、疑問が湧きました。
私も子供も、忘れ物をした事や、指導されたことに関して言い訳も反論もありません。しかし、これに関しては我慢ができませんでした。
他の親御さんからも以前、コーチの愚痴をこぼした事について、その保護者がコーチに報告し、辞めさせてしまった事があると聞きました。
子供が楽しくやっていること、好きでやっていることに関して、私はコーチの指導に従うつもりです。ですが、この保護者のやり方には本当に疑問しかありません。
反論すべきなのかどうか…。私のモヤモヤはどうしたらいいのでしょうか。子供のことを思えば波風立てずに静かに過ぎるのを待つだけとは知っていますが、私も人間です。何とも漠然とした相談で申し訳ございません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「聞く」 怒りのエネルギーに伝播され怒らない

あなたがまずチョー冷静になって、怒らない人間になることからです。
すると、そのブチ切れ感情人間に対して「冷静に」諭すことができます。
あなたも怒ることもなく、感情的なのは相手だけ。
怒ることは誰であっても感じ悪いものです。
聖人君子になる必要はありません。
ですが、怒っている人に怒って注意してもどっちも同じになってしまいます。
これが国同士であるとどうなるかはお分かりであると思います。
あなたにとっても「怒り」は課題なのです。
彼女には最終的には自分の怒りに向き合わせてくれたという恩をもとに赦しあう形で討論されるとよいでしょう。
参考対話
「コケ―!!!コケコケ!(怒り)」
「すみませーん。(笑顔)」
「なによ!コケコケ!」
「どうされたんですか?」
「どうしたもこうしたもないわよ!コケコケ!🐓」
「まぁ、そうだったんですかー。大変でしたねー。ところで、いつもうちの子供たちがご迷惑をかけているようですみませーん。すごく面倒みがいいですねー。」
「…」
から始まる、相手への共感と聞き出しが大事だと思います。
もし、反撃や相手をもっとなだめたいのであれば、そこからまずは相手を刺激しない程度に、理解を求めることです。
相手に対してしてもらいたいことがあるのですから、それを相手に上手にお伝えすることです。
チカラで変化を求めても相手が良くなることはありません。
私が仮にですが「アンタさぁ!いい加減にしなさいよ!」とか言ってもまずカチンとくるはずです。
相手に受け止めてもらえるようなキャッチボールがあるものです。
家族であっても他人であっても、相手が受け止められるソフトなボールを投げかけることから始めましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
柔らかく対応出来るようにしてみます。
モヤモヤもそうすることで収まるといいなぁと思います。

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