疑り深い私。
一つ疑いだすと、全てを疑いだしてしまいます。
言葉の全部が言い訳のように聞こえる。
全部が嘘をついているように聞こえる。
信じたいのに信じることが出来ません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
手品も 映画も 人生も
それも大事。
ただ、時として気持ちよく騙されてやる事も大切。
相手の事情も理解してあげましょうよ。
あなただってそういう時はあるはずだ。
<追記>
”表面上では笑顔で騙されたフリをして、心の中で疑心暗鬼でどうにかなってしまいそうな状況が苦しいことがあります”
もちろん、時と場合によるとは思います。ことと次第によっては、もちろん見過ごすわけにはいかない事もありますし、聞き捨てならない事もあるかもしれません。
しかし、よくよく考えてみれば、大半は喧嘩をする価値もないような事ばかりだと思います。
子どものままごとに付き合ってやるように、泥だんごを食べるフリをしてやる感覚で、ウソや言い訳をする弱き者の悲しさをそっと見守っていてやってください。
ウソや言い訳をする者は、失敗のゆるされない厳しい環境にでもいるのでしょう。
質問者からのお礼
淨流寺 転落院ご住職様>ありがとうございます。騙されること、はできているのですが「気持ちよく」という部分では、きっと気持ちよくではないかと思います。表面上では笑顔で騙されたフリをして、心の中で疑心暗鬼でどうにかなってしまいそうな状況が苦しいことがあります。この気持ちもいつか昇華することができるでしょうか。
淨流寺 転落院ご住職様>追記の回答まで頂き、ありがとうございました。
"大半は喧嘩をする価値もないような事ばかりだと思います”というお言葉に、確かに相手を糾弾して喧嘩をしてまで、自分を騙しているかいないかをはっきりさせる必要なんてない気がしました。
今までどおり、黙って笑って、騙された(本当のところ、相手が騙しているかも分かりませんが…)フリをしているほうがいいような気もします。気にしすぎて、結局笑顔がしかめ面になって、相手に不快な思いをさせるのもなんだか違う気もしました。