どんな人間も受け入れられる心を持つには…
今の私は、相手の欠点しか見つけることができず、その欠点に対してイライラして腹が立ってしまいます。
自分のことしか考えない人、人の話を聞かず自分が自分がと前にでる人、思い込みで判断して自分を押し付けて傷つけてくる人、それを本人は気付いていないか開き直ってること…
そんな相手と接するには、正直、心が疲れます。
お坊さんは、腹が立つこと、イライラすることら心が折れることはありますか?
そんな時、どう気持ちを切り替えていますか?
どんな人でも受け入れる心…
どうすれば切り替えればいいのでしょうか?
受け入れよう相手の良いとこを見て悪く考えないようにしてきましたが…ちょっと心が限界です。
アドバイスを頂ければ助かります。
他人の幸せに時々嫉妬してしまう
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
存在だけ受け容れてあげてください
ちーさんの感じられるとおり、、、
自分自分ばかりな人。
自分の価値観をゴリ押しして来る人。
相手を否定する事で、自分を正当化する人。
利用しようと近寄ってくる人。
ちーさんと同じく、そんな方と関わっていると、正直疲れますし、ホント心が折れそうになった事は数えきれないくらいです....
そのような気持ちにさせられる方ですが・・・
「その人」にも人生があり、「その人」の愛する家庭があり、「その人」を好きだと感じる人だって、きっとおられます。
なによりも「その人」が存在している事に、必ずどこかに意味があります。
私は「その人」へ、こう思います。
「自分はあなたの存在を受け容れるけど、自分も自分の存在や価値観を受け容れている」
過去の質問も拝読しましたが、職場の人間関係でお悩みでしょうか。
切っても切れない関係なら、無理に良い部分を探さなくてもいいのかな?と私は感じました。
そのような作業を繰り返していると、心が破綻していくのではないかと思うからです。
「人は人、自分は自分」と突き放すでもなく、「~な部分もあるから許そう」と打算的になるのでもなく。
相手が正しいかどうか、そんなの自分の物差しですべては測れない。
自分が正しいかどうか、そこも本来は分からない。
相手を良く感じる努力をしよう、と頑張っている自分から降りてみる。
そのような感覚で、人と関わられてはいかがでしょうか?
すべての人を受け容れるのは観音さまのお仕事です。
人間には不可能です。
ちーさんは、無理に人を受け容れる「闘い」から、そろそろ抜け出してもいいのではないかと、私は思います。
機法二種深信
①自分こそがまるで取るに足らない、どうにも救いようのない人間である事を深く自覚しましょう。
②そんな自分をみそなわして、励まし、慰め、癒やし、時には叱ってくれる存在?作用?教え?があり、それらに支えられ育まれてきた自分は、釈迦やキリストに負けないくらいのかけがえのない尊き存在であった、という事実を深く自覚しましょう。
この2つの自覚がバランスよく深まっていくと、きっとあなたは《自分の存在の有り難さと尊さ》に気がつくでしょう。それと同時に、あなたの気に入らないアイツもコイツも、やっぱり《自分と同じように有難く尊い存在であった》と気がつくでしょう。そうなると、まだ成長過程にある未熟者に対し、あなたのイライラは【憐憫】の心に翻り、大らかで優しいまなざしを向けることができるようになります。すると、あなたの中に彼らの成長を待ってあげられる寛容さが生まれてきます。
仏様の【哀愍摂受】(あいみんしょうじゅ)とは、こういうものだと思います。
坊さんとて、どうしても合わない人やどうしても受け入れられない人もいます。これは【怨憎会苦】といって、生きていく以上、避けて通ることのできない真実です。しかしながら、我々坊さんたちはこうやってこの人生の苦を解決していきます。
無理なモノは無理。。。。
私も、どうしても受けいることが出来ない方がいいのます。
仏教では、生きていく上での苦しみに八苦 良く言う、『四苦八苦』です。
その中に、怨憎会苦 と言って、会いたいくない人とでも、縁を結ばなくてはならない苦しみがあります。
私は、そんな方にはあえて関わらず、交わらない様にしております。
ココロが、楽でいる事が出来ますよ。
ちーさんなら 大丈夫ですよ。
質問者からのお礼
みなさま、回答して頂きありがとうございました。
あまり考え過ぎず、無理せずに日々過ごしていきたいとおもいます。