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お坊さんは、物足りないなと感じることがありますか?

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有り難し有り難し 78

自分の欲望がわかりません。
自分は幸せだと思います。現代日本に生まれ、健康、大学にも通えていて、恵まれた環境に感謝しています。日々の生活も自分で自分を褒めたりして、頑張っています。毎日に満足していますし、精神的に不安定ということもなく、至って健全に、前向きに生きていると思います。
十分幸せなのに、ふと乾いたような、何かに飢えているような気持ちになる時があるのです。
でも自分でも何が欲しいのかわかりません。
生活には満足しているし、欲しいものもなく、足りていないものはないはずなのです。
お坊さんは、物足りないなと感じることはありますか?
得体の知れない渇望にモヤモヤする日々です。
どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。心構えにお坊さんの助言をいただけますでしょうか、、


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

二種類の満足

私は<満足>には2種類あると考えています。
①状況の満足 ②存在の満足

基本、誰もが①を追い求めて生活をしています。しかし、これは縁(条件、タイミング等)によって状況というものはコロコロ変わります。例えば、最新モデルのスマホを苦労してゲットしても、次のモデルが発売されると急に心もとなく感じます。一事が万事そうですよね。

しかし、どんなに状況が変わろうとも、②の自分という存在そのもへの満足感というのは、一度得てしまえば二度と変わらないと思います。

”生活には満足しているし、欲しいものもなく、足りていないものはないはずなのです”
それなのに、何か足りない気がするんでしょう?
それはきっと①状況の満足のみを追いかけているからでしょう。

”得体の知れない渇望にモヤモヤする日々です”
まだ一国の王子様としてヨロシクやっていた頃のお釈迦様と同じですねー。

きっと、あなたは金やモノや社会的評価ではない、②あなたという存在そのものへの満足を求め始めているのだと思います。

素晴らしい気付き、目覚めの奇瑞だと思います。
ぜひ、有縁の仏法に依って学んでみて下さい。

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仏道は出世間道-世間の価値観を超えた道

人間は慢性的欲求不満症なのです。

それは煩悩があるからです。漏(ろ)とも言いますが。まさに漏れ出るもの。垂れ流しのものが煩悩です。外部からの刺激に反応して漏れ出るのです。

だから人間はどんな世間のものを持ってきても本当に満足するという事がありません。

お金があっても、健康があっても、友がいても、伴侶がいても、やりがいのある仕事があっても何があっても刺激に煩悩が反応して漏れ出ます。

もっといいもの。もっと違うもの。もっと多く。もっと刺激的に。

そうやって求め続けます。

しかし何を持ってきても満足しません。そしてたとえ何を持ってきても人間は死んでしまう事を知っています。
死の前には目の前の満足が虚しくなるのです。掴んだ意味に耐えられなくなるのです。

健康であっても、お金があっても、恵まれた環境があっても、愛する人がいても、そして全てを得た自分さえも

全部死に奪われます。死んだ先には何も持っていけません。死とはあらゆる可能性を破る絶対的な不可能性なのです。

それに気づいたのがお釈迦様です。

生老病死する人間のいのちにおいて本当の満足とは何か。

その本当の満足を得る道、つまりは生死(しょうじ)の迷いを超える道を求められたのです。

そしてお釈迦様はついに覚りに達し、真の満足を得ました。世間の価値観を突き抜けた、出世間のものに触れることにより、煩悩は滅し尽くされ(漏尽通)、平穏寂滅の境地に至ったのです。
私たち仏教徒もそこを目指す者でありますが、こればかりは戯論寂滅(けろんじゃくめつ)。つまり言葉を超えた世界です。
それぞれがそれぞれの歩みの中で確かめていく他ありません。もちろんそこに達した者、あるいは達しようとするものは言葉を超えた世界をなんとかして言葉で説明しようと言葉を尽くそうとする一面もあります。
このhasunohaもそうした側面の一つと言えます。

さあ、あなたも世間の価値観を超えた本当の満足を求めて仏道に足を踏み入れませんか?

その道は「物足りないと感じることにすら満足する」道かなあと私は感じたりしますよ。

どんな私でも「私が私でよかった」「これが私の人生だ」という満足。

さあ是非ご一緒に。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

転落院様
自分が満足していると思っていたのは、おっしゃる通りで、状態だけだったことに気が付きました。これでは目先の満足を追い続けるのみで人生が終わってしまいそうですね。やはり人間が煩悩を捨てて真に満足するには仏教を学ぶ他ない気がします。本当にありがとうございます。

吉武文法様
煩悩だらけで、本当に困ります…
生死を超えた満足ができる人生にするために、仏教を学ぶだけでなく、身をもって実行していくことが大切なのですね。
物足りなさに満足する、わたしもこれができたら人生最高ですね。仏教を人生を通して学びたいと思います。本当にありがとうございました。

真剣に回答してくださり、本当にありがとうございました。モヤモヤの正体がわかり、スッキリしております。お坊さんからいただいた解答を真摯に受け止めてわたしの人生に役立て、仏教を通して人生をより楽しみたいと思います。本当にありがとうございました。

「お坊さんのことを知りたい」問答一覧

他人がやってる寺を兼務で引き受けたくない

40代独身で、500件ほどの檀家がいる田舎の寺の住職をしております。 近所の住職死亡後、やり手のない寺を数件、兼務しており、合わせると500件ほどになります。 もともと別の自宅住まいでサラリーマンをしてましたが、途中親が病気にかかり、長男で跡取りだった私に、やってくれと親から頼まれて継いだのがきっかけで、仕事を辞めて継いだのですが、もともと私は他人とコミュニケーションを取るのが苦手なので、現在寺の檀家との関りが大変で、葬式が入る都度、寺の仕事が嫌でたまりません。 そのような状態で、精神科に通院しながら、精神安定薬と睡眠薬を処方してもらいながらなんとか寺の仕事をしてます。独身の姉にも協力してもらい、私が檀家の対応全般、姉は裏で火事全般しながらどうしてもの時だけ檀家の対応・・・みたいな感じでやってます。 近所に檀家100件にも満たない兼業住職がおり、結婚してますが子供に恵まれなかったようで、私はその寺のほうるいという立場になってます。 その寺の行事を手伝っているのは私だけで、ほかにもほうるい住職が数名いますが、書類の名前だけで、何かあっても一切かかわりたくないような状態になってます。 その住職が近々危なく、後もいない状態で、その住職の兄弟などの身内はいても、皆仕事をしており、寺なんかやりたくないと皆いっております。 今後その住職はなくなった際は、ほうるいの私がその寺を兼務として引き受けないといけないのでしょうか? 今現在500件ほどの檀家の対応を私と姉で行っており、相当きつく、これ以上ほかの住職がやってる寺の檀家のめんどうまで見れません。 正直な話、もう今なんとかやってる自分の寺の檀家の対応だけでも相当大変なので、これ以上ほかの寺の檀家まで兼務で押し付けられたくなく、関わり合いになりたくありません。 こういった場合、今後その住職がなくなった際、その寺の兼務を断ることは可能でしょうか? 本山に事情を説明し、頼めばだれか代わりの住職を派遣してもらい、後を継いでやってもらうことはできるのでしょうか?

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お坊さんの勤務形態について教えて下さい

離婚問題で悩んでいる時、バツイチのお坊さんと知り合いました。最初彼から遊びの誘いがあり。失礼な人と断りました。今は友人として付き合っています。 友人関係が続いたのは、後日先日の行動が人として大変失礼な対応だった。反省していると、彼から謝罪があったからです。その際にも、ちゃんとしたお付き合いの話はありませんでした。 私は元夫から多種のDVをうけ男性不信になりました。いつか恋愛出来たらいいなと夢見ながら、男性が怖いです。結婚は絶対に無いです。 加えて彼は寺の跡取りで一緒に家庭を築き、寺に入り子供を産める人を探しています。私は子供を産むこともできません。だからあえてハッキリさせないようにしてました。 その後仲良くなるにつれ、プライベートを明かさなかった彼が以前より私にプライベートを見せるようになりました。気付けば毎日メールで連絡をし、月2~3回程度、昼夜時間を割いては健全に遊んでいます。トキメキはないけど気持ちは【凪】です。友達以上恋人未満の1番いい感じの時 自然と今以上仲良くなる予感があり、仲良くなりたそうな行動が見えたり、泊りがけで旅行に行くような話もチラホラ、ただ、お坊さんの勤務形態ってどうなんでしょう? 私は会社員で有給もあります。毎月月末に翌月の予定が未定。次のデートの約束は大抵決まりません。休みがまだ決まらない。分からないって、そんな事ありますか?もうずっとそんな状態で、深く付き合いたくないから、遠回しにそう言ってるのだと思うようになりました。 嫌なら嫌と言って欲しいのに旅行は行きたい、遊ぶのも仕事終わりなら全然大丈夫、凄いケチなのに自分から遊びにも誘って車も出してくれます。 どうゆうこと?と、モヤモヤしてますが、でも誰にも聞けず、彼もはっきり言わないので、やっぱり遊ばれているのでは?と思う反面、彼は嘘をつくのがべらぼうに下手で、私には嘘をついた事がない為、もしかして本当なのかも?と思いたい気持ちからこちらにお聞きしました。 休みが分かりにくいって業界的に本当ですか?何でですか?ちなみに彼は実家の住職をしながら、別のお寺に本業で務めています。本業の休みの日に実家で法事をしたりしています。 この関係がハッピーエンドにはならないと分かっていますが、一緒にいるだけで気持ちが穏やかになれる相手です。嘘ばかりの元夫の毒が抜けていく気がして魂が救われています。

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尊重とはどこまでですか?

ハスノハのお坊さまのおかげで「他者を尊重することが大事」なのはよくわかったのですが、尊重とはどこまでするものでしょうか? モラルに欠けた発言なども尊重するべきなのかと考えたりします。そもそもモラルというのも曖昧だと思うのです。人によって違うと思うので。 「平和だからこそ戦争が必要だ」なんて言う人もいると思うのです。これは一般的には理解されないし尊重されないことだと思いますが、「他者を尊重することが大事」ならそれすらも認めることになるのかなと思います。 これが"尊重"なら、もし私が仮にいじめを受けたとしても「これ(いじめ)すらもその人の一部なのだな...」と思うのではないかと思います。 いじめや犯罪や浮気や不倫など、世界の"事"全てです。 社会のルールを基準にするのかな?とも思いましたが、それは"社会の思い込み"の可能性もあると思いますし、何よりそれは「他者を尊重できている」のでしょうか? 社会のルールという名の"正義"で個人個人を存外に扱っているのでは?と思います。 倫理も一緒です。全て人によって違うと思うのです。 例. Aさん「別に人をいじめてもいいでしょ?」← これも"Aさんの考え"で「Aさんの一部」なのかなと捉えてしまいます。この場合、Aさんは他者を尊重できていないと思います。ですが、それを注意すればAさんの価値観や考えを否定している(尊重できていない)ことになるのかなと思います。 そうなると無関心に見えると思いますし、この文章の通り「〜と思います」や「〜なのかな」などボヤっとしてハッキリしなくなると思います。 その結果、他人が「〜でしょ」や「〜です」と言うことに神経質になると思います。なぜなら、それがその人の思い込みの可能性があるからです。 でも、その人の思い込み = その人の意見なのでモヤモヤしても無理して尊重する。 尊重とはどこまでですか? 行き過ぎれば無関心に見えてきます。"相手とは違う自分の意見"を言えば否定されていると思われ、注意すれば「他者の意見を尊重できていない」ことになり、じゃあ何も言わないとなれば、無関心と見える。 お坊さまは尊重する際、何を"基準"に持ってらっしゃいますか? 乱文で申し訳ございません。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ