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ボランティアに行くんですが…。

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1か月振りの投稿です。質問の前に雑文だらだらと書かせて頂きます。
誤字等あれば、ご容赦ください。

先の質問で面接すること述べましたが、面接駄目でした。
応援して頂いた方には、なんともいえない気持ちになります。
落ちたときは、ショックで死にたくなったりしました。
hasunohaに相談しようか思いましたが、それすらも億劫な心境でした。

今は若干平静になっています。といっても、どうしてもまだ卑屈ですが…。

落ちてから一か月ですが、結構色々なこと思ったり、あったりしました(^_^:)

『ボクは坊さん』見に行ったら周りが皆年上。

1年以上ぶりに、菩提寺にお墓参り行ったら、軽く住職に幻滅(別に質問する予定)

就職セミナー内で仲良くなった人から、宗教勧誘をうけた(おそらく、顕ナントカさん)
就職活動したら、まさかの宗教活動…。
「南無妙法蓮華経って知ってる?(ニコニコ)」「えー…、ちょっとそういうのは…」
(知ってるよ!つーか俺は日蓮宗だよ!(心の中で突っ込み))
警察、セミナーの人には連絡済で、キチンと断って逃げました。

こんな1か月でした。なんか仏教関連(?)の思い出が多いです
全部本当ですよ(笑)

ようやくここから本題ですが、3週間被災地ボランティアに急ですが行きます。
場所は岩手県です。
どうして行くのかというと、ある事柄をするのにどこでも良かったが、せっかくなのでボランティアをしようと思ったからです(お坊さんは、よければプロフ欄に詳細書いてます。ただ活動団体等に迷惑をかけたくないので、回答ではプロフ欄にのみ書いてることは、絶対に控えてください、お願いします)
岩手は福島よりも、都会から遠いのでボランティアが少ないそうです。
頑張ろうと思っていますが、良くないことも考えてしまいます。
3週間も寒いとこ行きたくない、家でパソコンでもいじってたい。
結局俺って、就職に有利とか、ついででボランティアしようと、してるんだよね。邪な気持ちどこかにあるよね。など。
(ただ主な目的はとある事柄ですが、決め手はボランティアでした。じゃなきゃ、家の近くでその事柄やります)

嫌な気持ちを抱えたまま、ボランティアに取り組んで、いいものでしょうか?
こういうこと思ってボランティア活動しなさいなど、あれば参考にしたいと思います。
回答よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

純粋=善を疑え

前の問いの時、「ちょっとぼかします」の方ですね。そこが印象的でした。
あなたの事、微笑ましく見守らせて欲しいです。母性本能だな、これは。
私の先輩で、石巻で被災された方がいらっしゃいますが、「ボランティアに来るなら、遊んで行ってね」と言った方がいます。だからヨコシマだろうが構わないと思います。他に目的があって、「折角だからボランティア」、大いによろしいと。
私は坊さんですが、その「キッカケ」と、「坊さんであり続けること」は、かなり次元の異なる話です。お寺に生まれたから坊さんになった。それは偽りなく事実。でも、もう20年にもなりますが、「坊さんでい続けること」の動機は、坊さんとして活動する中から出てきています。つまり、やった先で瞬間ごとに更新し続けているのです。
なので、やってみれ。やった先で分かるだろうよ。それが私からの助言です。
ただ、ボランティアしている時は熱中したほうがいい。「その事柄」をしている時はそれに熱中しているように。きょうび、就職の面接で「ボランティアをしてきました」という人はもの凄く多いでしょう。だから、「岩手で3週間やってきました」だけでは、大したプラスにはならないと思います。でもその中で、きっと何かに気づく、その気づき自体が大切なのだと思います。自分がそれに対して鈍感か敏感か、その違いですが、社会では結局、その仕事をする中での気づきが何であるか、に個人のポテンシャルを見るのだと思います。
もしかしたら、そのボランティアがキッカケで、岩手に就職という道もあるかも知れませんよ。
世の中、「動機が純粋でなければ」という風潮があるようですが、それは幻。昼はガッツリとボランティアをして、夜は仙台でバッチリ遊ぶ、そんな人も多いと聞きます。寒いの嫌だな、という思いを抱きつつ、体はしっかり働く。「動機が…」の話は、仕事ぶりを評価して、そこから遡って出る話です。順番が違うのですから、そこを取り違えてはいけません。

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一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

気持ちを注ぎ過ぎない

何をするにしても、何かのためにというぶら下がりを棄てた方がいでしょう。
ただやれるようになれるとイイでしょう。
今までは、すべて何かのためにやってきたでしょう。
そして、期待した結果、それが得られなくなった。
何かのために、ということがあったからこそのガッカリ感は相当なものだったと思います。
今回のボランティアは、何かの為にはいりません。
目的をすててただ行ずる、ということをやってみてください。
そこに自分を運ばない。
そこに私的な思いを運ばない。
そこに自分のエゴや自分のルールを一切介入させない。
それが妙法蓮華心、妙法蓮華行というべき、仏行、仏心が現ぜられた行いです。
その結果、人間というものがそういう自分ワールド独自目線の目的によって、心が大きく上下されていたことを見つめ直す良い機会になると思います。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

余計なことは考えず色々やればいい

目の前に来た事を、損得なんか関係なくただやればいい。
そのうちにあなたの中に見えてくるものがあるかもしれません。
就職に有利という事を意識して、ボランティア活動をしてもただの偽善者でしか無い。きっかけそうであっても、その日になって現場に行ったら、そのことに徹してみてください。結果は後から付いてくるものです。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

後先考えずにやる

竹丸さん、こんにちは。

ボランティア活動は、他のことを考えずにするものです。就職や今後のためにするのであれば、やめておいた方がいいと思います。

利他の心(自分以外の誰かの役に立つこと)をもってボランティア活動に取り組んでください。あなたが後先を考えて活動していることは、相手に見透かされてしまいます。気をつけてください。

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おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

質問者からのお礼

邦元さん、佐藤良文さん、丹下覚元さん、中村太釈さん 回答ありがとうございます。

私の文が拙く、何人かの方に誤解を生んでいる可能性があるので一応補足すると…。
就職に有利だから行くのではなく、なにか自分のやつれた精神や価値観を変えたいや、紹介されたときに、自分の目が興味を持って大きく見開いたということに直感が働く、ただ単にボランティアしてみたいという事で行くことにしました。

でも、一方で寒いから嫌だとか思っていたり、絶対、心の奥底で就職に有利だとかそういうが絶対働いてるぞという風に、自分の心を疑った結果、出てしまった悩みを文で書きたかったのです。
もしくは意識しないようにしても、意識してしまうと書きたかったのです。

繰り返しの文章になってしまいますが、
「就職に有利」という意識的な動機で悩んでいたのではなく
「就職に有利」と心のどこか自分で思っているんじゃないか、思っているはずだ、ということに悩んでいました。

補足は以上です。これでわかりにくければ、私の文が下手ということでご容赦ください。

皆さんや、他の方の意見を聞いて、自分がどういう考えでボランティアに行くのか述べます。

私は、行く動機にもしも心の奥底で、理性として思ってなくても、自然発生的にあまり良くない考えの動機を抱えてしまっても、良いと考えることにしました。

何故なら、純粋すぎるな思いはかえってたちが悪いと、他の人に教えて頂いたからです。
いわゆる押しつけたりする環境保護団体など。

でも、ボランティアをするときは何も考えずやりたいと思います。
自分は例えるなら何も入ってない袋のようなイメージで、ボランティアを行うつもりです。
最終的に、その中で自然に袋の中に入ってきたものが、自分の中に自然に入ってきた何か自分の琴線に触れたものとします。

ではボランティア行ってきますね(^_^)

12月1日朝記入 誤字等あれば、ご容赦ください。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ