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落ち着きません

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以前からの続きで「辞めたい」などの質問をしてきましたが、三日前に研修期間終了の面接で解雇になりました。「延びしろが感じられない」「もう少したった頃に育て上げた感が感じられない」と言う理由でした。
面接に行く前に「ごねられたら困るから一緒に行く?」と職員二人が話しているのが忘れられません。
自分的には食事の量が減るほど毎日「辛い」と思いながら何とか頑張っていました。「ごねられたら困る」という言葉を聞いて「居たら困るほど必要ない人間なんだ」という思いが消えず、気持ちが切り替わりません。
あと、私より後に入った人(同じ日に研修期間終了の面接をして、そのまま雇われる人です)にメールを送ってしまいました。「皆に何て言ってるのか?」と「私がやっていた仕事は誰がやるのか?」を知りたいと。辞めてしまったので関係ないのですが、気になったので…でも、もらった方は困りますよね?返信はなく、メールを送った事を後悔しています。もう会うことはないと思いますが、謝りのメールを送った方がいいでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もっとやるべきことがあるでしょう?

”もう会うことはないと思いますが、謝りのメールを送った方がいいでしょうか?”
もういいのではないのでしょうか。
相手の方もきっと困ったのだと思います。そこで謝られてしまえば、余計に困るか、あてつけがましいと取られるかもしれません。「返信なし」がそのまま返答でしょう。
辞めたのだから、相手の方を開放してあげましょう。
そして、あなた自身も以前の職場から開放してあげましょうね。

以前の質問内容を読ませていただきました。
何のお仕事かはよく分かりませんが、ずっとお辛い日々を送られてきたようですね。
雇用者側にとってもあなたにとっても、どうやらあまり合わなかったようですね。あなたも腹の中で嫌だ、嫌だ、辞めたい、辞めたいと思っていれば、そのうち顔色や態度に出るというもの。敬遠されても文句は言えないと思います。

”居たら困るほど必要ない人間なんだ”
解雇されたということは、そういうことなんでしょう。しかしながら、それはその職場はあなたの働きぶりや健康状態などを鑑みてそう判断したのかもしれませんが、あなたが自身が「何処へ行っても役に立たない」「何処へ行っても間に合わない」とレッテルを貼るのは間違いかと思います。ある職場では毛嫌いされたが、別の職場ではえらく重宝された。同じ「私」という人間が同じ業種で同じ仕事をしているのに…なんて経験、じつは私にもあります。

生活がなかなかお厳しいようで…ということはヘコんでいるヒマはありませんね。次は、フルタイムでお金がいっぱいもらえそうだからではなく、ちゃんと自分にもできそうな業務内容か、勤務体制かなど、もっとしっかりリサーチをかけてから仕事に就きましょうね。

事業所のニーズにあなたが合わなかった。
たぶんね、それだけの事ですよ。

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平日は夜間のみ対応可能。

引用返信にて
【「ごねられたら困る」という言葉を聞いて「居たら困るほど必要ない人間なんだ」という思いが消えず、気持ちが切り替わりません。 】

居たら困るほど必要ない人間だと思ったのはあなたです。
あなたの悩みはものに自分のネガティブな思いをそえることです。
それを外したければ坐禅会にご参加いただき自分が思うことと実際の事実との差異を学ばれると良いでしょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

転落院様
主人の病気の事もあり、私も焦って仕事を探してしまいました。結婚前に働いていた職種だったので、業務内容は違っても働けるという考えもあり決めた仕事でした。
確かにへこんでいる暇はないのでしょうが、心の中がぐちゃぐちゃで変な感じがしています。
回答ありがとうございました。

丹下覚元様
座禅会に行けば差異を多少でも学ぶ事が出来るのですね。近所でやっている所がないか探してみます。
回答、ありがとうございました。

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