お礼を
先日、因果はあるのでしょうか?
という質問をさせて頂きました、ミーコです。
前回、お礼のコーナーが見当たらず、遅くなりましたが、お礼を述べたく、こちらから失礼させていただきたいと思います。
あの時、お答え頂きました、法覚悟の吉武文法様
大変有り難いお言葉を、有難う御座いました。
大切なのは、我が心の持ち方だと、真に受け止めて、日々生きて行こうと思います。ありがたしが、増えて行くのを拝見すると、皆さん、同じ事で悩んでおられるのだなぁと、驚きました。本当に、有難う御座います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
有り難し
ご丁寧にお礼を頂戴し誠に有難うございます。お気持ち大変嬉しく頂戴しました。
こちらこそ本当に「有り難し!」です。
さて、「心の持ち方」は大事ですね。起きてしまった物事の事実は変わらなくとも、それをどうとらえるかで心は軽くも重くもなります。
しかし、「心の持ち方」ではどうにもならにこともあるのが私たちの生きる現実でしょう。そんな「心の持ち方」ではどうにもならないこの私という存在を救ってくださるのが「信仰」であると私は思います。
先日ご質問いただいた際のミーコ様の「因果」についての理解もある意味では信仰です。それも多くの日本人が無意識に抱える信仰であると思います。
それは「除災招福」です。災い(悪い事)を除き福(良い事)を招きたいと願う。それは人情として当然ですが、その良し悪しを何か操っているようなものが目に見えない世界にあると考えるのが多くの人が無意識に抱える信仰です。
先日、それをミーコ様は「因果」と表現しましたが、それは霊であったり、仏教では鬼や魔と称されるものです。
そうしたものを恐れ、そしてそれに媚び、あるいは鎮めようともがく。そうすると人は主体性を失っていきます。
良きことも悪きことも自らの責任として受け入れることが出来ず、霊や魔や鬼など目に見えないものせいにしていく。
その信仰を破り、主体性を取り戻すのが仏教の信仰です。その信仰の目でみた正しい「因果」とは先日お話しした通りの原因と条件と結果の網の目のような連鎖です。
目に見えない霊的な何かではなく、私たちの思いもおいつかないような数々の原因と条件がこの今の私を結果として成り立たせている。
そうであるならば良きことも悪きこともこの私と無関係ではない、私が受けるべきご縁であったと主体性を持って引き受けていけます。
良し悪しは私たちの心にある。その心に根深くひそむ「除災招福」の信仰はいつでも霊・鬼・魔を呼び寄せ、その前に私たちの主体性を眠らせようとします。
人間は弱いのです。心の持ち方だけではどうしようもなく、目に見えないもののせいに逃げてしまうような存在なのです。
だから私たちはいつも仏法に目を覚まされ続けるために教えを聞くのです。弱い心のまま、私の存在まるごとを救ってくださるのが仏教の信仰なのでしょう。
追記
質問ありがとうございます。大事な問いなので是非新たに質問してください!
質問者からのお礼
早速のお返事を頂き、誠に有難うございます。確かに、人生とは、修行なのですね、私の母方の先祖は、お寺で代々の家系図はお坊さんの自画像がありました、ですが、私は、無宗教で、何の信仰も、持ち合わせておりません、今後、信仰を持つには、どうすれば、良いのでしょうか?
お礼を述べさせて頂くつもりが又質問となり、申し訳有りません。
はい、分かりました、宜しくお願い致します。ありがとうございます。