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神様は乗り越えられる試練しか与えないとは本当でしょうか

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前回、失明する病気の件で書かせていただきました。

この病気以外にもいろいろあります。末っ子を出産してから舟に乗っているように、ずっと体が揺れています。座っていても立っていてもです。
大学病院の脳外科、耳鼻科でたくさん検査していただきましたがどこも異常なしとのことでなんの治療もありません。15年、この揺れに耐えています。

そして、一昨年、酷い顎関節症になり、これもまた治りません。食べにくい、しゃべりにくい、笑いにくいのです。

治らないものばかりで気分が落ち込むばかりです。

前世で何か悪い事をしたのかしら?何か罰が当たったのか?マイナスな事ばかり考えてしまいます。

生死に関わる病気ではありませんが、かなりのストレスです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

既に乗り越えているという視点も持ってみてください

大変お辛いご病気で大変であろうと思います。
一日24時間の中で「忘れている時間」に焦点を合わせてみる必要があります。
私も昨年5日ほど入院しましたが、病気であっても病気を忘じている時の時間帯に学ぶことがもっとも病気を乗り越える際のよい「薬師」の働きになるものです。
私は今ものどを患っておりますが、咳をしたりする際に痛むという程度で気にしていない時には、病気であっても病気に影響されていないものです。
大切なのは、本当に大変な御病気であるとしても、その体の病気によって心が病に影響されなくすることです。
人は思いによって実際の病気が100であるならば、そこに心でもって
①嫌がる
②気にする
③抵抗する
④変化を求める
⑤悩む
など、変えられないことを変えたいと願うことで心が今の状態に安住しなくなるものです。
うつの人やがんの人でもそれを四六時中気にすることで「気に病む」という心が元気をなくす状態になってしまうことがあります。
私も現在、本当にのどが痛くてどうしようもないのですが、それを変えようとはせず治るのを待つばかりです。
まるさんの場合は今の状態を様々な角度から調べて頂いて盲点となっているところから治していく方法を探してみるとよいかもしれません。
世の中には「うつ」だと思って通っていたところ医師の誤診で低血糖症であったりする場合もあります。
ちょっと違う角度からも原因・解決法を探っていただくことが良いと思います。
原因が突き止められますことをお祈りいたします。

https://www.google.co.jp/search?ei=2k9cWtDJMoyo8QXPtry4CA&q=体が揺れるような感覚&oq=体が揺れるような感覚&gs_l=psy-ab.3...0.0.0.15957.0.0.0.0.0.0.0.0..0.0....0...1c..64.psy-ab..0.0.0....0.IofUvgpc6RU

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

現実に一つ一つ改善を目指して、できることから

まる様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

神様は乗り越えられる試練しか与えないということは、ある意味では現実を無視した言葉であると捉えられても仕方がないものであると拙生は考えております・・

乗り越えられない試練も、まあ、いっぱいあるわけで・・しかし、それも含めた人生であるのであります。

見方を変えれば、また違った捉え方もあるでしょうが・・例えば、人間万事塞翁が馬と言った具合に・・

まあ、それもやはり気休めにしかならないかもしれません・・

とにかく人の体についてもまだまだ解明されていないこともございます。

医学の進歩によっては、また治療もあり得るものとなるでしょうが・・そう望むのも少しの気休めであるのかもしれません・・

うまくどう付き合っていくべきであるのか・・ご当人にとりましてはやはり切実なことであるかと存じます・・

複合する病気には、何かやはり共通した原因があるのかもしれません。

一見、違うとして、それぞれバラバラに専門科に通うよりも、何か共通の原因があるのかもとして、そういう視点で病原を探って頂ける医師・病院を探すことや、あるいは、統合医療的な視点からならば何か治療もあり得るかもしれません。

とにかく、現実に一つ一つ改善を目指して、できること、できうることをしていくことが最善であると存じます。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

川口 英俊様

早速のご回答、ありがとうございました。

私も何かつながりがあるのだと思い、大学病院の主治医に相談したりもしましたが、関係ないでしょうと即答され諦めておりました。

ひとつひとつ解決方法を見付けていきたいと思います。

丹下覚元様

ご回答ありがとうございます。

既に乗り越えているという発想は全然ありませんでした。

病は気からとよくいいますから、あまり考えないように努めておりますが、ひとりで家に居る事が多いので、どうしても考えこんでしまい、負のスパイラルに落ちていくことも多々あります。

目の病気に関してはiPS細胞の進歩を待つばかりですが、めまいや顎関節症に関しては、もう一度原因究明したいと思います。

丹下様も、のど、どうぞお大事に。

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