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告白すべきか

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有り難し有り難し 6

高校3年生 女子です
1年半片思いをしている同性の人がいます。その人は私が同性が好きだということを分かってくれています。
もうすぐ卒業でお互い県外に進学します。その人に会えなくなってしまうのが今1番悲しいし不安です。
最近、好きだということを伝えないと後悔するような気がしています。
ですが、付き合いたいかというと、それは自分でもよく分かりません。そもそも今まで友人として接してくれていた人に告白するのは正しいのか...とも思います。
恋愛に性別なんて関係ないというのは分かってはいるのですが...。
告白するなら中途半端なものにしてはいけないと思います。
私自身が自分のことをあまり理解できていないのでまとまりのない文章になってしまいました。すみません。
私の決断に少しでも役に立つような言葉をもらえると嬉しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

好意は好意のままに。
好意を恋愛感情と結び付けると混線します。
純粋な好意のままで恋愛意識とからめないことです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

3年間も時間が経ってしまいました。お礼遅れて申し訳ありません。
結果から言うと、付き合えたけどすぐ振られてしまいました。泣
でも、当時の私は自分の気持ちとしっかり向き合って、告白をして付き合うという選択をしました。
御回答を元に、「この好意はどんな中身なんだろう」とじっくり考えることが出来ました。
ありがとうございました。

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