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子供が欲しいのに

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有り難し有り難し 12

今結婚を視野に入れてお付き合いしている彼氏がいるのですが、
わたしの仕事、彼の仕事等いろんな事情で結婚、子供を作ることができません。

わたし自身今の彼とすぐに結婚して子供が欲しいのですが、まだ派遣社員なので正社員(なるには数年かかる)になって安定しはじめてからのほうがいいのではないかと、まだ我慢しています。

ただ身近にデキ婚をした方がいて、私もこんなに結婚したくて子供も結婚も我慢して、他に時間を割いているのに、いっときの気持ちでそんな簡単に私が欲しいものを手に入れているのかと思うとすごく嫉妬に近い気持ちと許せない気持ちでいっぱいになってしまって

私のことではないのでその方とは関係ないですし、嫉妬するだけ時間の無駄なのはわかっているのですが
どうしたらこの気持ちを無くすことができますでしょうか?
嫉妬してしまう自分が嫌で、嫉妬するくらいなら結婚したくないと思ってしまったりもしてしまいます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仕事と結婚を分離しない。

世間の人は結婚しながら仕事して仕事しながらも結婚生活を続けているでしょう。
あなたたちの中では初めてのことでしょうから中々そこが理解されないだけでしょう。
優先順位もお互い仕事が最優先になっておられるご様子。
仕事も大事でしょうが、人生の数分の一は結婚生活でもあるのです。
もっと具体的に計画を深めることです子供ができたらぶっちゃけお仕事どころではありません。男性は女性以上にそこのところを理解しませんから一人で子供を育てるくらいの勢いで居ながらも、男性に子育てに関することを協力的にしてもらうように徐々に洗脳するよりほかありません。子供ができてからはあなたが旦那もコントロールしませんと男性たちは仕事だけしていればいいとしか思っていませんから、子育てに関して手伝ってもらうことを確約させることです。
今の時点で仕事が仕事がと長い間待たせてごめんまた急に仕事が入ったとキロロ節ですと、その後もお先マックロード。リッチーブラックモアならまだしもボンビーブラックモアで生活も苦しくなりましょう。今の彼氏とある程度続いているから結婚するんじゃありません。本当に家庭的な人間と結婚することが無いと男は仕事バカだったり野心家だったりしますから、結婚しても脱線する可能性もあります。結婚って思っている以上にスンゲー大変です。
今の時点でお互いが仕事仕事であるということは結婚より小作りよりもっと見直すべきことがあるのではないでしょうか。彼にも読んでもらって結婚の現実と女性のつらさと、男性も男性なりに線上で歩み続けることの大変さをあなたも理解しあうことです。深い面で理解しあうことも無く、語り合い話し合いもない夫婦はこれからもコミュニケーションが取れない関係が続いていきます。あなたがたちがもし結婚するのであれば、今からすでにその関係性は始まっているのです。夫婦で大切なのはコミュニケーション。あなたのように「自分一人に話しかけている」のはある意味危険です。本当のパートナーは彼であるべきでしょう。もっともっと真の伴侶となるべく話し合いを深めていくべきです。 

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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