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物欲を抑えられません。

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有り難し有り難し 36

よろしくお願いします。
わたしは数年前から物欲、特に洋服を買いたい欲を抑えられません。
家はあまり裕福ではなく学生時代は好きなものをあまり買えなかったかなと記憶していて、自分で働き給料を貰えるようになってから、残高が無くなるまで買ってしまうようになりました。特に暇さえあればネット通販で万単位を週に何回も購入してしまい、やめようやめようと思ってもまた見てしまいます。色々改善策をみていると、やはり見ないことが一番らしいのですが。買い物に出かけても、迷いはしますが結局買います。買って満足して着ることはあまりありません。そもそも洋服は好きなのでなかなかやめれません。他に趣味や楽しみを見つけたらいいのですが。漠然と自分に満足していないことを散財して穴埋めしようとしているのだとは思います。様々なことに満たされていなうと実感しています。
我慢というか、冷静になるにはどうしたら良いでしょうか。
駄文ですが、よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

欲しいのはモノじゃなくて輝かしい自分

異性を意識して異性から総合的に好かれるように努力する過程として浪費癖は男性から好かれないから浪費をやめることです。
男性はそういう浪費の多い女性はご免こうむりたい人は多いです。
「異性に好かれないことはやめる。」これって結構モチベーションが高まるものです。
そもそもモノであなた自身を飾っても服は繊維が汚れますし、デザインは古くなりますし、宝石は色あせますし、男をとっかえひっかえしても真に満たされはありません。
アナタはモノで自分を満たそうとされているのかもしれません。
評価の中の最高の評価はモノの方にはありません。
アナタが最高に満足を得る方法は心を満たすことです。
どこぞにこのままの私では貧しい感があるのでしょう。
実はその心こそ一番貧しいのです。
心の満たしが仏教です。
仏教は欲を無くす、怒りを無くす、迷いを無くすのではなく、
欲をエネルギーとなし、怒りを原動力として活用し、迷いを転じて悟りに向かわしめることです。
あなたの欲を上手に使いましょう。
過去への怒りやハングリー精神は自分でお金を稼いで自立女性への道への原動力となすと良いでしょう。今回のお悩みは迷いの一つです。これを泥として、さらに肥やしと転じて、蓮の花咲かすべく活用するのです。
「悪いものは悪いもののままにさせておくから悪いままなのです。」
このフレーズを一日数回、意味が分かるまで真言としてお唱えください。
アナタをより良く咲かせるのはあなた自身。
モノは他の誰が持っても似合うものです。あなたを一番輝かせるのはモノではなく、こころです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。
お言葉、唱えることを実践したいと思います。モノに溢れた中にいる空っぽの自分を少しでも納得いく自分に出来るように過ごしたいと思います。ありがとうございました。

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