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仏様の存在を信じてもらうにはどうすればいいのでしょうか?

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有り難し有り難し 28

私は先日、このhasunohaでの有り難いお言葉を頂き、仏師になろうと決心しました。
それで仏教を学び、皆に伝えようと思考を巡らした時、一つの悩みが生じました。
それは、仏様の存在を信じない人がいてそれを説得できない事実です。

私は幼いころ、実際に観世音菩薩様に出会っていますし、姉も不動明王様に出会っています。
ですから、我が家では仏様の存在が当たり前となっているのですが、過去何度か他者に当たり前の感覚で仏様の事を言うと、信じてもらえませんでした。

信じない人は、科学的にあり得ない、仏様に会ったのなら私に金と権力がないのはおかしい、夢だ、幻覚だ、不合理な世の中になる筈がない・・・といった具合の事を言って聞いてくれません。

私は仏様が公平な仕組みを作り依怙贔屓をしないだけだと考えています。
それに、金権力といったものに興味を持てないので、ご利益がないからおかしいという意味が分かりません。
貧乏ながら幸せと感じているからそれがご利益だと思います。
生きて喜怒哀楽を感じることが人に与えられたご利益ではないでしょうか。

普通にあった出来事を何と言って説明すればいいのかわかりません。
当たり前のことを説明するのは難しいです。
存在するものは存在するのです。
夢や幻といわれますが、ちゃんと起きているときに出会っています。
あの圧倒的な存在感を五感で感じたものは信じるしかないです。
きっと、仏様に出会った人は皆そういうでしょう。
過去何人もあった人がいるのですから存在しないと考える方がおかしいです。
それしかいいようがありません。

私自身が馬鹿にされても構わないのですが、仏様の存在を信じない人は損していると思います。
ですから、できるだけ信じてもらいたいと考えております。
どうかお知恵をお授けください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏という言葉でなくても良い

お釈迦様は今の日本のように「仏」らしいことを何も持ち込んでいませんでした。
いつの頃からか仏教は、仏さま思想になったのでしょうか。
そこをよくよく思惟してみてください。
客観的にみればキリスト教や神話のタロットカードのようなものをみせられて、こういう神が存在するんだよ、こういうマリア様という方が存在するんだよ、こういう悪い悪魔も存在するんだよ、と言われてあなたは「ハイ、そうでございますか」と信じられますか。
伝えるべきは観世音、観自在が示す中身の方です。
不動明王が示す、不動なる心、煩悩を断ち切る金剛の剣、智慧。
カタチの仏を示して、こういうものが存在すると言っても人によっては絵空事としか感じないでしょう。
本尊とは、自分の自我が失われて自らがそれになった様子。
あなたが観世音菩薩、不動明王のごとき生き方をすれば、それが仏をあらわしたことに他ならない。
仏、菩薩は、知識で論ずるものではない。存在を証明することではない。
自らがそういう生き方をして伝える精神なのです。
あなたなら工夫して、必ず実現できるはずです。

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「疑」の煩悩があるから信じられない

悟りの第一段階(預流果)に達したら、「有身見」「疑」「戒禁取見」という3つの煩悩がなくなるそうです。
裏を返せば、普通の悟っていない人には皆、それらの煩悩があるのです。
その中の「疑」とは、よく確かめもせずに頭から否定したり、よく確かめもせずに妄信したりする煩悩のようです。
誰にでも、そのような煩悩があるのです。
だから、信じられなくて当然なのです。
あなたが出会った観音様が本当に観音様なのかどうか、それもわかりません。
むやみに信じこむのも「疑」の煩悩かもしれませんから、気をつける必要はあります。
「法(心で考えること)は無我(実体がない)である」(法無我)と気をつけてください。

なお、仏教を信じる入りかたには二つのパターンがあります。
直ちに仰ぎ信じる「仰信」と、理屈で理解して信じる「解心」です。
お釈迦様なら、相手に応じて両方のパターンを使い分けて他人を導くでしょうけど、我々にはなかなか難しいのです。
仏教ではプライドの煩悩は悩み苦しみの原因と考えます。
信じている自分は信じていない他人より偉い、すごい、とかいうプライドが生じるのも苦しみの原因になるので、気をつける必要がありますね。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

願誉浄史様へ
教えて頂き有難うございます。
私は無知ですのでそういった信じられない煩悩があることを知りませんでした。
人心はそういうものなのですね。
確かに私は信じやすいところがあります。
気を付けないと駄目ですね。
今のところ、自分は偉いと思っておらず、仏様に比べたら人間の差なんて微々たるものと考えているのですが、将来慢心が生じてしまうかもしれません。
そうならないように気を付けます。

丹下 覚元(たんげ かくげん)様へ
私自身、神様とか悪魔とかを直ぐに信じるタイプです。
自分が仏様に出会ったのだから、そういう高位存在がいても不思議ではないし、人よりも高位の存在は星の数ほど存在するのだから、出会う人がいても不思議ではないという風に思っていました。
それで信じられない人の気持ちがわかりませんでした。
そして単純に、あのような素晴らしい存在がいるのに知らない何て損しているなと思っていました。
存在していると知っているだけで、お金、地位、名誉、競争なんてものがどうでもよくなり、山空星などが全て美しく思え、平凡な毎日こそが全てに勝る幸せだと分かるようになると考えております。
そういった事から、単純に良いことを知らせようと思ったのですが、丹下 覚元様がおっしゃる通りで、別に存在を知らなくても内容さえあればいいですね。
幸い私は学問全般が好きなので、その知識を駆使して正しい心を表現しようと思います。

お二人の有り難いお言葉を聞き、ますます仏教に対する興味が強くなりました。
仏教を正しく学び、内容を伝えるよう努力します。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ