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孤独

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有り難し有り難し 28

これまで、ほとんど片思いをする事がありませんでした。
拒絶される事への恐怖と、幸いな事にこれまで自分からアプローチをせずとも寄ってきてくれる子がいた為、片思いが面倒だと感じていました。
そのせいもあってか、心から相手を愛した事は殆ど無かった気がします。
その為、長続きする事もあまりありませんでした。

今回、仕事の関係で地元を離れ、知人も誰もいない場所に転勤になったのですが、ずっと孤独との戦いです。

転勤になってすぐに少し気になる女性が現れたのですが、これが恋なのか、それとも孤独の逃げ場にしようとしているのか自分の気持ちが曖昧です。

両親には愛されて育ったと感じていますが、小学生の頃から高校の時までずっといじめられて生きてきました。
そのせいなのか、常に愛情に飢えている感覚が自分の中にあります。

正直、この感情はとても面倒で消してしまいたいと常々思っております。

見つからない答えを求め彷徨っていますが、少しでも気持ちを軽くしたいと思っております。

何かアドバイスを頂けたら幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

真の孤独には「寂しい」という見解がない

学生時代孤独で孤独で死にそうな時期を過ごしていました。
ぜーんぶ捨て切った時に、その寂しさは無くなりました。
本当の静寂には寂しいなんてこともありません。
虚しいなんてこともありません。
それはまだまだどこかで思考を動かして、静寂を台無しにされてしまっているのです。
本当の静寂には心のおしゃべりがありません。
釣り人が一人で魚を釣っていても寂しいなんて思いません。
旅人が旅をしながら寂しいなんてありません。
つまり、あなたの孤独、静寂は真の静寂ではないのです。
坐禅は孤独な業ではありません。
誰もが生まれてこの方一人で呼吸をしています。
呼吸は自然に呼吸が為されているのに寂しいとかはありません。
つまり、ワタクシがないのです。
ワタクシの見解というお手つきが介入されていないのです。
人間の心は静寂の中にあってもおしゃべりです。
なにかしゃべっていないと落ち着かないという習慣があるのでしょう。
坐禅はそれも黙らせます。
今もこれをご覧になられながらも、何かいろいろしゃべっている、反応している自分を見つめてみることです。
それが無くなると良いのです。
たった今、数秒でも孤独なんてことを忘れておったのではないですか。
それが黙するということです。
真の静寂には孤独もない。寂しさもない。無ということも無い。
決して虚無的な静寂ではないのです。
もっと暖かで、安らかな静寂。
それが坐禅なのです。
生き生きとした静寂を感じ取ってみてください。
どこに行っても大丈夫なようになります。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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