孤独
これまで、ほとんど片思いをする事がありませんでした。
拒絶される事への恐怖と、幸いな事にこれまで自分からアプローチをせずとも寄ってきてくれる子がいた為、片思いが面倒だと感じていました。
そのせいもあってか、心から相手を愛した事は殆ど無かった気がします。
その為、長続きする事もあまりありませんでした。
今回、仕事の関係で地元を離れ、知人も誰もいない場所に転勤になったのですが、ずっと孤独との戦いです。
転勤になってすぐに少し気になる女性が現れたのですが、これが恋なのか、それとも孤独の逃げ場にしようとしているのか自分の気持ちが曖昧です。
両親には愛されて育ったと感じていますが、小学生の頃から高校の時までずっといじめられて生きてきました。
そのせいなのか、常に愛情に飢えている感覚が自分の中にあります。
正直、この感情はとても面倒で消してしまいたいと常々思っております。
見つからない答えを求め彷徨っていますが、少しでも気持ちを軽くしたいと思っております。
何かアドバイスを頂けたら幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
真の孤独には「寂しい」という見解がない
学生時代孤独で孤独で死にそうな時期を過ごしていました。
ぜーんぶ捨て切った時に、その寂しさは無くなりました。
本当の静寂には寂しいなんてこともありません。
虚しいなんてこともありません。
それはまだまだどこかで思考を動かして、静寂を台無しにされてしまっているのです。
本当の静寂には心のおしゃべりがありません。
釣り人が一人で魚を釣っていても寂しいなんて思いません。
旅人が旅をしながら寂しいなんてありません。
つまり、あなたの孤独、静寂は真の静寂ではないのです。
坐禅は孤独な業ではありません。
誰もが生まれてこの方一人で呼吸をしています。
呼吸は自然に呼吸が為されているのに寂しいとかはありません。
つまり、ワタクシがないのです。
ワタクシの見解というお手つきが介入されていないのです。
人間の心は静寂の中にあってもおしゃべりです。
なにかしゃべっていないと落ち着かないという習慣があるのでしょう。
坐禅はそれも黙らせます。
今もこれをご覧になられながらも、何かいろいろしゃべっている、反応している自分を見つめてみることです。
それが無くなると良いのです。
たった今、数秒でも孤独なんてことを忘れておったのではないですか。
それが黙するということです。
真の静寂には孤独もない。寂しさもない。無ということも無い。
決して虚無的な静寂ではないのです。
もっと暖かで、安らかな静寂。
それが坐禅なのです。
生き生きとした静寂を感じ取ってみてください。
どこに行っても大丈夫なようになります。