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川原の石を拾ってきてしまった

回答数回答 2
有り難し有り難し 19

よろしくお願いします。
先日京都の嵐山で桂川沿いに歩いていたときに、ベビーカーのしたのポケット(地面にすれすれの位置にあります)を引きずってしまっていたようで、石が大量に入ってしまいました。気づかずにそのままベビーカーを使用しており、帰りの駅や商業施設にばらまいてしまいました。
また、まだ石がたくさん入ってしまっています。
川原の石には霊的なものが宿る、とどこかで見た気がして、ばちが当たらないか不安でたまりません。
また、いろんなところにばらまいてしまい誰かに迷惑をかけていないか、そのことでもばちが当たらないか心配です。

また、まだ入っている石は京都まで返しにいった方がいいのでしょうか。

なにかばちが当たるでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それがバチ

そういう風に不安がることがばちです。
そのようにして人間は自分の思いに苦しむのだ、ということをこれを通して学んでいただき、仏道を求めて自らの思いに振り回されないな心になって下さい。
一つの事実が、一つの思いを生む。
その思いが関連動画のように無限の思いを生み出している。
あなたはその生みだされた思いの方ばかり見て、その思いに苦しんでいる。
一つの事実が思いを生み出したのだという所に帰って来てください。
ただの石になるまでその本質を見極めましょう。
自分の霊に憑りつかれないようになるでしょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ただの石です。

全く問題ありません。
そんなことをいちいち気にしていたら病気になりますよ。
気にしないでください。
ばちは当たりません。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

ご回答いただき、大変ありがとうございました。

落ち着くことができました。

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