さっぱり理解できません
自分を肯定すること、認めたり許すことが
幸せに生きるためにどうして必要なんでしょうか?
そのままの自分でいてずっと不幸だったのに
その不幸の原因になった自分を許してみて
何になるのかわかりません。
今の自分でなくならないと幸せにはなれない気がしています。
今の自分が不幸の原因だったのなら、今の自分が消えてくれないと
このままいやな人生のままだと思ってしまいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
頭で理解しようとすると迷宮入りするかも…
これまでの人生が不幸でいやなものだとお感じになっているのは、「そのままの自分」が原因と言うより、そのままの自分が認められず責めたり、そのままでなくなろうともがいてきたりしたからではないでしょうか。
だからこそ、「自分を認めたり許したりしなさい」とここhasunohaでも私を含め回答僧は説くことがあります。
しかしこの変のニュアンスは非常にややこしいというか、どうも頭だけで考えると思考や言葉の遊びという迷宮に陥りがちです。
ともすると「自分を認める」ということが「自己正当化」と同義に捉えられる恐れもあります。
あえて言語表現するなら、「そのままの自分を認める」というのは「自分が自分の考えで認める・認めない以前に、この自分は自分でしかないと目覚め受け入れる」という感じでしょうか…。
そしてその「自分を受け入れる」というのも、観念的な自分の考え方によるものではなく、「自分が自分を受け入れられない時でも、この自分を受け入れてくれる法(教え・はたらき)がある」と目覚めるのが仏教の信であります。
ここで「受け入れてくれる」と表現はしましたが、その信は自覚教である仏教においてはやはり自分と離れてあるわけではないので、別に仏様が心の中に現れ出てきて「ヨシ!お前を受け入れよう」とか言ってくれるというものでもなく…というようにこの辺の微妙なニュアンスをすっとばして言うと単純に「自分を認める」とか「許す」とかいう具合になるのだと思います。
おっしゃる通り、自分には自分の好きな部分や嫌いな部分があり、その嫌いな部分をなくせてこそ初めて自分を肯定でき、そして幸せになれるのではないかというのは理屈としてはわかります。
しかし肯定しようが否定しようが、好きだろうが嫌いだろうが、自分が変わろうが変わるまいが、いつでも自分は自分でしかないのです。
(もっと言うならば自分という枠組みすら霧散してしまうのが仏教かもしれません)
不幸の原因であったと自分が解釈する自分のある部分を、自分が自分で変えてその結果自分が認められる自分になり…ってその自分自分とごちゃごちゃ分析して実体化して問題とするものをまるごと投げ捨ててまるごとの自分として引き受けましょうという話しではないでしょうか。
その辺を順を追って説きほぐしてくれるのが念仏であったり座禅であったりと各宗派の教えの体系なのだと思います。
質問者からのお礼
お礼遅くなり申し訳ありません。
認知療法等を用いて、この問題に取り組もうと思います。