優劣の中で迷う心を手放したい回答受付中
結果を出さなければと生きてきました。
小2から中学受験のため塾通い。毎週復習テストが日曜にあり、その結果で前から席順が決まります。成績が悪いと機嫌が悪く、よいと笑顔になる。怯えていました。
母の日、花買ってきた!という私に「ふーん」と言われたことが忘れられません。
母は9年前私が29のときに亡くなりました。
「結果がすべて」「一番でないと意味がない」母に言われたわけではないけど、そう思う大人になっていました。しなければならない、が口癖でした。今は意識して「しよう」に変えています。苦しさで色んな本を読み、ようやくアダルトチルドレンという言葉にたどり着いたのは先月です。
中高とテニス部で、今も毎日のようにプレーしています。テストに行ってる間に、私だけをおいて弟と父母がテニスに行っていたことを知ったときのことをショックで覚えています。
今悩んでるのは、練習試合さえもしたくない、ということです。
近しい人には伝えてますが、まだ試合はしたくない?という言葉に苦しめられます。初対面の人に決まって聞かれることが、試合出てるんですか?です。そう聞かれるたび、苦しいです。
負けたら自分は相手より下だと突きつけられる、それが「耐えられない」んです。ラリーをしてたら打ち負けないのに、私の方が上手いのになんで、と。傲慢ですよね。(先にミスした方が負けなので、格下に負けることはあるあるです)
この人には絶対勝たなあかん。と考えることでしんどすぎて試合に出なくなりました。でも試合には出ないと、と思いプロが出てる試合に出ていましたが、「負けて当たり前」の相手と試合をしてもだんだん何の意味があるんや、と思い出なくなりました。
ミスってハハ!って笑えるようになってほしいとコーチに言われています。だから最近は遊びでダブルスをしていますが、とてもじゃないけど笑えないです。
人に「上手ですね」と言われても「何がわかるん」「どこが?全然できてないのに」と受け取る。かと思えば逆に、すごいと思われたい、という思いから強い球を打ち込む。
そのとき必要なことはコントロールなのに、相手を打ち負かすために打っているのは、自分軸ではなく、他人軸で行動してるな、と最近気づきました。
気づいたからといってすぐに手放せるものではありません。
どうすれば「負けたら下」という思いから自由になれるでしょうか。
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あゆみ 様 相談ありがとうございます。
小さい頃から、競争意識を植え付けられて、出来なければ嫌な顔をされて、出来ても愛されている感じも得られなかったら、誰だって他人の顔色を伺うようになり、勝っても自分の喜びとできず、負けたら自己嫌悪に陥るほどになってしまいます。
それはあなたの言うように、アダルトチルドレンも原因の一つですし、自分を愛する、自分を許す、自分に優しさや思いやりを向けるということが苦手になっているからだと私は思います。
自分に思いやりを向ける(セルフ・コンパッション)は、自分を甘やかしたり怠惰にすることではありません。自分の悩み苦しみに真摯に向き合い、よい方向へ導くように対処していくことを言います。
それには、まず親の言動からの呪縛から解き放たれて、自分を癒やすことが必要です。心身を癒し、心に安心安全を充分に感じて、評価せず判断せず、今そのままのあなたが、ただそのままで居ていいよ!と無条件に自己存在を感じることが大切と思います。仏教でいう慈悲の精神を養うことを言います。
「無理に頑張らなくてもいいよ、私は今のままで素晴らしい、これからも私は私」
人は失敗もするし、恥もかく。もちろん何かで勝ったり負けたりもある。
それはでも生きている証拠。それでいいんだと思えるようになれば、自分を大いに許せるし認めるし些細なことでも喜びを感じることになるでしょう。
例えば、電車などで高齢者に席を譲ったりするでしょう。テニスでもダブルスを組めばパートナーのカバーに走るでしょう。その時の心の温かさを、自分に向けてみましょう。それがコンパッションの始まりです。
仏様は、「誰もが自分が愛おしい」と仰って、あなたの傍にいる人も同じように思っているので、自分もその人も愛おしいと思っているものとして尊重しなさいとお説きになられました。どうか一緒にコンパッションを育てていきましょう。
きっと他人軸を手放せるでしょう。
追伸:早速にお礼メッセージありがとうございました。雨の日もあれば晴れる日もある。自分を愛することは晴れも雨もOKと思えるぐらいが丁度いいかな。参考にしてください。困ったらまたご相談ください。この度のご縁に感謝申し上げます。再礼。
勝利を愛せていないのでは
この文章を読んで強く感じることは、あなたは
『勝ちたい、結果を出したい』のではなく、
『負けたくない、結果を見るのが怖い』のだと感じます
この二つは似ているようで全然違うもので、どちらが良いとか悪いもありません
ただ、前者の方が精神を健全に保ちやすいくらいのものでしょう
なぜあなたの文章からそう感じるかというと、“勝利の喜び”に魅入られている雰囲気を読み取れないからです
どんな競争であれ、そこに勝敗がある限り、負けから何かを得られる精神をしている人はそう多くはありません
まずは敗北を嫌うのではなく、勝利を愛する必要があるのを感じます
『負けたら~』と考えている時点で優秀な競技者のメンタルからは外れているように思います
これはたまたまかもしれませんが、私がお会いした優秀な競技者はスポーツであれ、ゲームであれ、全員“勝利に貪欲”で“敗北に無興味”でした
負けることを勝つためのコストだと考えているようにも受け取れます
大会だけではなく、一試合、一ゲーム、目の前の一球
そこに自分の理想を置き、その理想に勝利することを目指し続けている
“勝てなかったこと”を悔しがり、“次勝つため”に次の試合に向かう
全てがあなたの今の精神と逆なような気がするのです
まずは勝つこと
相手が格下だろうと、下手糞だろうと、昨日の自分だろうと、勝ったことを自覚し、それを喜ぶこと
勝利を求め、勝利のためにリスクを冒せる精神を作ること
これが大事なような気がしますね
無我
仏教では、私達個人個人は、五蘊(色・受・想・行・識)という5つの現象が仮に絡まり合っているだけの存在だと考えます。
色とは肉体・物質的な現象。残り4つは精神的な現象です。
我々が執着している「自分」という存在は、瞬間瞬間に変化している色・受・想・行・識に過ぎず、ゆるぎない「私」という実体は無いのです。
これを無我とか空とか呼び、「自分」という概念上の記号は、実は夢や幻のような存在であって執着に値しないものなのです。
例えば、細胞は新陳代謝で入れ替わるし、心は瞬間ごとに浮かんで消えています。
だから、過去の自分と今の自分は実は別人(瞬間ごとに新しい自分)であり、ただ記憶データや戸籍上の名前を相続しているだけなのです。
仏教では、瞑想等の修行をして、上記のことを実感できる「悟り」を目指しています。
わざわざ修行しなければ悟れない難しい教えではありますが、まずは知識として、
「「自分」は無我(空)であり、過去の自分は他人。
心は瞬間ごとに浮かんで消えており、瞬間ごとに新しい自分。
だから、自分の価値とか勝ち負けとかにこだわる必要はない。
今・ここの五蘊(色・受・想・行・識)の賞味期限は1秒だけ」
と意識してみてれば、少しは気楽になるかもしれませんね。
あなたが救われて自由に生きることできます様に
拝読させて頂きました。
あなたが若い頃から競わされてきてとても苦しい思いをなさってきたことを読ませて頂きました。詳細なあなたやお母様や周りの方々のことはわからないですけれどあなたのその苦しいお気持ちを心よりお察しします。
あなたは心の中で本心から「「負けたら下」という思いから自由になりたいのだと思います。あなたが常に勝ち負けで判断しなければならないところから解放されたいのかと思います。
今までそのようにあなたは見られてきたのでしょうし、そのように強いられてきたのかと思います。ですからその勝ち負けで判断することにとらわれているのではないかと思います。それは自分を守るために生き残っていくためにそう思って生きてきたのかと思います。ですからその基準を手放すのはなかなか難しいのかとは思います。
しかしあなたが生きていることは勝ち負けのみの基準や規範の中でいきているばかりではありません。
私達が生きていることは多くの恵みを受けているからです。私達はお互いのことを心から尊重し助け合って生きています。誰が勝者で誰が敗者だと決めつけることが如何に小さなことなのか如何に愚かなことなのかです。
どのようなところにも確かに勝負を競い合うことはあります。しかしゲーム中でもゲームが終わってもお互いのことを心から尊敬し合い尊重し合い讃えあうことが一番重要です。お互いのことを心から尊重し合わなければ本当に大切なことを見失ってしまうでしょう、本当の意味を為さなくなってしまうでしょう、そのゲームの真の価値を失ってしまうでしょう。
ですからそんな私達を仏様や神様やご先祖様は平等に私達をお見守りなさって下さいますし、私達を本当に善き方へとお導きなさって下さり、私達の迷いや苦しみから救って下さいます。
あなたが今までとらわれ苦しんでいることから救われます様に、心おおらかに自由に生きることができます様に、皆さんとお互いのことを心から尊重し合い健やかに生きることできます様に、切に仏様や神様やご先祖様にお祈りさせて頂きます。至心合掌
質問者からのお礼
みなさま
様々な視点からお答えいただきありがとうございました。
どれも何度も何度も読みましたし、これからも何度も読むと思います。
どのお言葉も、わたしに必要でした。
今は理解が難しくても自分と他者と本気で向き合う中で、このことか!と思える日がくるような気がしています。
本当の意味でもっと自分を愛したいと、今は思っています。
相談して本当によかったです。
本当にありがとうございました。