東日本大震災による犠牲の受け止め方回答受付中
東日本大震災で多くの方々が犠牲に合いました。その方達は何も悪くないのに、苦しく辛い経験をされ、一方で私は元気で生きています。ガザやウクライナでの戦争も同じです。なぜこのような理不尽な事が起こるのでしょうか。
私には答えが出ません。お坊さんはこの厄災や理不尽な不幸をどのように説明されますか?
できれば宗派も教えて頂きたいです。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
タイミングや巡り合わせの中で
拝読させて頂きました。
あなたは東日本大地震等の震災で亡くなられた方々やイスラエルガザ等の戦災で亡くなられた方々は何故そのように理不尽な亡くならなければならなかったのか?と思っておられるのですね。詳細なあなたのことはわからないですけれども、あなたがそのように思うことはとてもわかるように感じます。あなたの思いを心より受け止めさせて頂きます。
私は浄土宗の僧侶です。
おっしゃる通り遥か昔から今まで幾多の震災や戦災や疫病が起こり、何の罪もない方々が亡くなられていきました。それは数限りなく無限にあります。何故亡くならなければならなかったのかは正直なところわからないです。
しかしそのように亡くなられたことは自らの行いによって亡くなったのではなくて様々な巡り合わせの中で亡くなられたのです。その時のタイミングやご縁や巡り合わせによって亡くなることはあります。
災害だけではなく事件や事故によって亡くなる場合でもその一瞬のタイミングによって亡くなる場合があります。ですからそのような場合その人のせいではありません。それは非業の死というものです。
ものごとには不思議な巡り合わせがあるのです、私達では計り知れないことなのです。
大切な人を震災や戦災や事故や事件によって亡くすことはとても悲しいですし辛いですし、なかなか割り切れることではありません。どんなに悔やんでも悔やんでも悔やみきれないこと、割り切れないこともあります。
そのような辛く理不尽としか思えない中でも仏様は必ずお亡くなりになられた方々を全てお救いなさって下さいます。
戦災や震災や疫病や飢餓や事故や事件によって亡くなられた方々も全て仏様は迷うことなく平等に救い仏様の浄土へと導いて下さいます。
お亡くなりになられた方々は仏様のもとにて先に逝かれた親しい方々やご先祖様に迎えられ、一切の迷いも苦しみも痛みからも救われて何の憂いもなく、安心なさってご成仏なさっていくことができます。
あなたが与えられた命や人生に感謝なさり、充実して毎日生き抜くことができますように心よりお祈りさせて頂きます。
そしてあなたが天寿を全うなさる時には必ず仏様や菩薩様や神様があなたを優しくお導き下さり、ご先祖様が優しくお迎え下さり再会を果たされますように切に仏様や神様やご先祖様にお祈りさせて頂きます。至心合掌 南無阿弥陀仏
悪い、とは何を指すか?
こんばんは。初めまして。「何も悪くない人が酷い目にあい、悪さをしている人が金儲けしている」という話は時々目にしますね。
では「悪い人」とは何でしょうか。
①法律違反でしょうか?もちろんそこには軽重があります。
②では、「違法ではないが嘘をついた」はどうでしょうか?
③その気はなかったが、他人を傷つけてしまった、はどうでしょう?
④鶏肉を食べた、はどうでしょう。命を奪っていますね。
次に、私たちはいったい悪事を働いたのか?を振り返りましょう。
①は人によりますけれど、②〜④は、正直どなたにも心当たりがあるのではないでしょうか。私は①②③④あります。
でも私は震災で死ぬことはなかったし、今のところ空爆にも遭っていません。
「悪いことをしたら悪い結果になる。悪くなければ悪い目に遭わないはずだ」というのが、あなたの思う「理不尽でない世界」なのでしょう。
震災で犠牲になった方が、では「みな何も悪いことをしなかった」のか?それは一括りにできませんね。理不尽に見える死もあれば、そう見えない死もある。因果の網の目は、私たちには見通せません。
さて、ではいったい何が起きているのでしょうか。
地震は、地球のメカニズムによって起きています。戦争は、政治や外交の失敗によって起きています。「起こること」自体には理屈があります。そして、地震や戦争が起これば、誰もが巻き込まれていく。現地にいるからです。それは、悪いこととも良いこととも言えません。
そろそろ私の結論を申しましょう。
自然の力は、人間をはるかに凌駕します。政治の力は、一個人を凌駕します。その前で「俺は悪いことしてないのに!」と叫んでも地震は止まりません。そもそも「俺は悪いことしてない」だって、怪しいものでしたね。
だから。地震の来ていない今ここで。戦争の起きていない今ここで。できること、良いと思えることを精一杯行う。「なぜ理不尽なことが起きるか」という問題に悩むのは自由ですが、もしかすると、問いの立て方そのものを少し変える必要があるのかもしれません。
例えば地震への備えはされていますか。人道支援への募金はしていますか。勿論それを押しつけるものではありません。
「できることを、していますか?」
そうして今日を丁寧に生きることが、最も確かな「理不尽への応答」になると、私は思っています。