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強い人になる為にはどうしたら良いですか

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先日、祖父が亡くなりました。
私は幼い頃からのおじいちゃん子で、亡くなったと聞いて頭が真っ白になりました。

地元から遠く離れている事、新しい仕事を始めた初日での出来事だった事、金銭的な問題などの理由により、大好きだった祖父の葬儀に駆け付ける事も出来ず、後悔しております。
数日は涙も出ないほどショックを受け、何も喉を通らず、眠気も来ないままいつの間にか気を失ったかのように寝ているような状態でした。

ただ、私には妻と息子二人を守っていく義務と責任がありますので、弱い姿のままでは居られません。家族を守る為にも、祖父に恥じない男になろうと決意しました。
何をどうすべきか、強くあるにはどうしたら良いのか、ご助言を頂ければ幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

逆に問うべし 弱さとは何か

心の弱さとは何でしょう。
ものを見たり聞いたりして心がすぐヘロヘロになることです。
それは反応時のこころの動き方の内容。
心が強くある人、動じない人、大丈夫な人は、何が起こっても動じないのです。閲覧注意な画像見ても傷つかない。痛ましい痛ましいでも、そこに心を注ぎ過ぎない。深く我がこととして関わらせ過ぎない。人の様子は人の様子として、自己は自己として不動なる様子なのです。
ものを見たときに二次的な想念を起こす。その想念の内容がネガティブであることを人は心が弱いというのです。
故に禅、禅定、三昧、不動心、念仏せられし自己、妙法蓮華心、空心、無心、無私無我心、平常心、解脱、涅槃、悟りといわれるような心の明晰さを求めることです。
思いに思わされなくなる心。
それがあなたに今一番必要な心です。
当山、安穏寺はそういう心をお伝えしております。
北は青森、南は熊本から、多くの人が「禅・悟り」と言われることの内容を自ら自らの心に参じに来られます。
Facebookページ「あんのん寺」においても法話、提唱の動画配信をしております。
関心があったらご覧ください。
私自身もそうでしたが、真に役立つ内容のある仏教でないと私は救われませんでした。
ひとによって求めるレベルは異なりましょうが、本当に何としても悟りということを明らかにするぞ!という決心を持つことです。なーなーなアンテナでは受信できません。本当に求めればちゃんと手に入る。真の料理の極みを求める上において〇〇屋の牛丼でイイや、という程度の求めの心では本当の極みは得られません。
あなたが本当に求める人になればいいのです。
そうすることで坊さん以上に、私ども以上に本当に素晴らしい心が明らかになります。
まずは大きな求めの心を持つことです。そうすれば自分なんて言う小さなものが忘じられてもっと大きな心に目覚めます。
真に大きな心とは心なんて言う小さな器ではなくなることです。
自も他も無く、天地、無私、宇宙っちゅうぐらいの大げさではなく本当に隔てやワクの取れたこころになることです。それは「人」という小さな囲いが忘じられることです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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