お坊さんへの相談が殺到しており、質問受付数を制限中です。

回答が追いついておりません。今を生きる人のために仏教の智慧を伝えてくれる僧侶の方を募集中です。

検体になる(2)

前回「検体になる」で、臓器移植の話になり、お答えが、賛成派と反対派に割れました。お勧め頂いた本を読んでから、改めて、私の意見、意思をお伝えするということで、しばらくお時間頂くことに致しましたが…。
ところで、その前に、ちょっとお聞かせ願えますでしょうか。大谷派は「臓器移植反対」の立場にある、というのは分かりました。「臓器」を「移植」することに反対なのですね、では、「献血」や「輸血」は、仏教的にはいかがなのでしょうか?「輸血」は「移植の簡単バージョン」のようなものです。「輸血」も生きている人間からのご厚意で頂くようなもので、「輸血」させてもらえなければ、亡くなる可能性もあります。宗教的な理由で「輸血を拒否」する患者様もおられます。その場合は、「輸血」が必要になった際にどのような処置をとるのか、話し合い&説明する必要があるのですが、そのことを『エホバの証人』という名で資料ファイルしています。仏教の世界で、臓器移植に賛成、反対の意見があるのならば、中には「輸血拒否」を望む方もいらっしゃるのでしょうか?前もって手術等に備えて、自分の輸血用血液を採血しておく『自己血採血』という方法を選択することも出来ますが、緊急時には、他人の血液を「輸血」するしか方法がない場合もあります。もしも、「輸血を拒否」する方がおられるのでしたら、どうなさるのかなと…。それに、「献血」は生きている皆様のご厚意で成り立っていますが、その「献血」自体、若者の減少、高齢者の増加で危機的状況にあります。さらに言うと、特種な血液型の場合は、血液センターに登録され、自由に!ではなく、その血液型の血液を採血させて頂きたく為に、必要な時に呼ばれて「献血」となる人々もいます。ややこしい話になりますが、その辺りを踏まえた上で、ご説明頂ければと思い、再度、質問させて頂きたくことに致しました。お返事お待ちしております。

有り難し 84
回答 5

質問投稿日: 2018年7月22日 22:52

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。
回答僧

大慈

そこじゃなく、もっと根本的に仏教っぽい感覚を

仏教徒で輸血を拒否は聞いたことありません。手塚治虫の『ブッダ』でも輸血してましたし(笑)しかし輸血については該当の宗派の方がご回答なさるでしょうということで…

大前提として仏教というのは割と臨機応変と言いますか、ケースバイケースな宗教です。
仏教は『応病与薬』(おうびょうよやく)と言われます。病院でも血圧の高い人には血圧を下げる薬を、血圧の低い人には血圧を上げる薬を処方しますね。血圧を上げることと下げること…それ自体は真逆です。でも、矛盾では無い。『健康な心身を保つ』という一本の芯が通っているから。
そのように相手の状態を観て、時に真逆のことを言うのが仏教です。

さて、私は献体には慎重派です(否定派ではなく慎重派)。ウチのお檀家さんで、とある旦那さんが献体に提供なさいました。そのお葬式でその旦那さんのお嬢さんがボロボロ泣いていらっしゃったんです。「遺骨は何年も返ってきませんし、父を供養してあげた気になれません。私はどこへ向かって拝めばいいのですか?何をしても父へ繋がっていると思えなくて、辛くて仕方がありません。私はあんなに止めてとお願いしたのに…」と言って。

献体に限りませんが、お坊さんやっているとしばしば『良かれと思って押し切る独善』を目の当たりにします。
でもそれって人によることですし、まわりの状況にもよることであって、『献体や献血そのものが良いか悪いかというものではない』ですよね。そう、『その人や状況によって変わる』。それを仏教で『一切皆空』(いっさいかいくう)と言います。

仏教的に言えば、献体も献血も空(くう)なのです。つまり献体や献血それ自体に意義があるわけではない。まわりの状況と、1人1人の心や行いによって良くも悪くも意義が生じるということです。
だからご自身の環境の中で判断し、色んな人とコミニュケーションをとって調整すべきことですよ。なんだかんだ言って大切なことは原則論ではなく、手の届く範囲の人を思い遣ることです。

あなたの場合は献体することでご自身の存在意義を担保しようとなさるから、献体が正しいかどうかが重要になるのではないかなとお見受けします。
仏教的に言えば、それは救いのある道の探し方ではありません。どういう意味か?しばらくhasunohaをご覧になってみて下さい。邦元師も吉武師も日頃そのことをよくよく説いていらっしゃいます。

11ヶ月前

問題の本質はどこか-「二項対立・正しさ」を超えて迷いに立つ

臓器移植・検体・輸血など…まあ、あらゆる問題について単純に「賛成」か「反対」という二元論に陥る背景には「正しさ」への依存があります。

お坊さんが説きたいのは「何が正しいか」ではなく「正しさへの依存にこそ迷いがあり、そこに救いはないのですよ」ということです。

そして僧侶個人の回答が宗派見解ではありません。もちろん宗派の公式見解があり、それに基づいた回答ならそうではありませんが。

では、大谷派が臓器移植に宗派として反対しているかと言うとそう単純なものではありません。大谷派が反対しているのは「生死の問題について人間の考えでこれが正しいと思い計れるという立場に立つこと」だと思います。その辺のニュアンスは下記の宗派声明等を参考に味わってみてください。

「臓器移植法案の衆議院可決に対する声明・初めての脳死臓器移植についての見解
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r21-6.htm

「臓器移植法改正」に関する動きについての宗務総長コメント
http://www.higashihonganji.or.jp/news/declaration/390/

それから先に紹介した著書の中でも、小川先生は例えば母子間における生体肝移植については「許容されるべきではないであろうか」と記しており、そこで何を危惧しているかと言うと「親たるものはかくあるべし」という「正しさ」への依存・強制を生むことです。

さて、助けられる命を助けたいという思いはけして否定されるものではありません。しかしそれはあくまでも人間心(=ニューマニズム:人類愛)であり、その人間心を肯定する根拠を仏法に求めるのは三宅師のおっしゃるとおり筋違いです。しかしあなたは何か自分の決断に根拠が欲しい、そこにあなたの問題の本質があるのですよと説いてくださっているのが大慈師です。

仏法があきらかにしてくれるのは「これが正しい」というものではなく、「正しさを求めて迷う私の姿」です。ですから仏法に照らされながら安心して迷えばよいのです。

人間が思う「正しさ」は所詮「正しくないもの」を生み出すような限界のあるものです。仏法は私を正しい者にする教えではなく、どこまでも自分の正しさを握ろうとすることの危うさを照らす教えです。

11ヶ月前
回答僧

慈眼

目の前に苦しんでいる人がいる、あなたはどうする?

臓器移植のときにも回答させていただいたものです。仏教的と言われると、学問として学んでいない私には的確な答えはできないと思いますが、人としてお答えさせていただきます。

輸血にしろ、臓器移植にしろ、もし、自分の子供がそれで救われるとしたら、多くの人は無条件で提供するとおもいます。それが他人となるとできなくなるというのはなんだか悲しいはなしです。目の前に苦しんでいる人がいて輸血もできないなんて、辛いと思いませんか?

人のためになること、それができる条件が揃っているならしてもいいと思います。
答えになっていないかもしれませんが。

11ヶ月前

お釈迦様がおられた時代は臓器移植も輸血も無かったので、仏教的にこれが正しいというものは無いと思います。
私としては浄土宗の宗祖法然上人の言われた言葉を重視しております。
「お念仏をお唱えできるように生きなさい」
法然上人はこのように言われました。
(浄土宗的には)あなたがお亡くなりになった後は浄土に生まれるのだから、その後で肉体をどうしようと構いません。
また、生きている時に、臓器移植や献血をすることがお念仏をお唱えすることに支障が無いなら実施しても構いません。さらに、移植された方がお念仏をお唱えできるようになれば喜ばしいことです。
しかし、臓器移植や献血をすることによって、あなたがお念仏をお唱えできなくなるなら実施しない方がよいです。
宗派によって、個人によって、様々な意見があります。ゆっくり考えてご自分の判断を導いてください。

11ヶ月前
回答僧

願誉浄史

脳死判定がからむとややこしい

輸血は、脳死判定を必要としませんから、問題ないと思います。

11ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

邦元様、お返事ありがとうございます。私は、臓器移植も献血、輸血も、今のところ「賛成」なのです。何が悪い?と思っています。しかし、反対される方がおられる以上は、何故、そのように頑なに反対されるのかを、教えて頂きたいと思い、再度、問うてみたのです。血液型の日本人の割合として、簡単に示すと、A:O:B:AB=4:3:2:1です。なので、単純に、AB型の方は、人口に比例して献血用血液の確保できる率も低く、実際に現場では、AB型の方が大量出血した際に、出来る限りの、最大限の努力をして、時には全国からその方の為だけに空輸までして輸血をする、という状況になることもあります。しかし、日本全国のAB型の血液を1人の方に輸血してしまうと、他に輸血を必要としている方の輸血用血液が無くなる、という事態になりますので、ある時点が来たら、血液センターの方から「もう、その患者様用に血液を納品することは出来ません」と連絡が入ります。そしたら、どうなるか。ちゃんと話し合い、相談、事実を説明してからですが、「申し訳ないですが、もう輸血することは出来ません」とお伝えすることになります。そして、患者様の『失血死』の時を迎えるのです。そういう形の「手を尽くしましたが、残念です」ということもあるのです。
残念な結果になったとしても、それなら最後の最後まで皆頑張ったんだ、と思えます。でも、それ以前に、もし宗教的な理由、今回伺いたいのは仏教的な理由で、もし「輸血拒否」という考え方が、中にはいらっしゃるのであれば、どうしてそう考えるのかをお教え願いたい。「臓器移植」の是非があるなら、もしかしたら「輸血」の是非もあるのか、仏教の方面から考えてどうなのかを、お聞きしたいのです。
繰り返しになりますが、今の時点では、私は「献血」「輸血」「臓器移植」全てOKだと思っております。
どこまで許されて、どこからが許されないのか、そういう境目が何故あるのか、皆様のご意見を頂戴したく、質問させていただいております。
邦元様のご意見には、今も以前も私は賛成です。今後、反対になるのかどうか等は分かりません。いろいろな考え方を受け入れてみてから、私なりに結論を出したいと思います。今の段階では、助け合う精神を大切にしたい、というのが私の心の内であります。

三宅聖章様、はじめまして。お返事ありがとうございます。浄土宗的には、そのようなお考えがあるのですね。私も、三宅様のご意見に(今は)賛成であり、その気持ちが良く分かります。各々の意思に逆らってまで、無意味なことはしてはなりません。ですが、役立てたいという思いと生きたいという思いが合致するのであれば、是非、「輸血」も「臓器移植」も受け入れていただきたいものです。
「検体になる」の題が、「臓器移植の是か非か」の問題に発展し、少しばかり「あれ?」と思っている次第ではありますが、一石を同日者の責任として、ちゃんと私なりの結論を出すべく、これから、いろいろと熟考してみたいと思います。

最後、ちょっと間違えました。「一石を同日者の責任として、ちゃんと私なりの結論を出すべく、これから、いろいろと熟考してみたいと思います。」のところ、「一石を投じた者の責任として、ちゃんと私なりの結論を出すべく、これから、いろいろと熟考してみたいと思います。」に訂正させていただきます…。

大慈様、はじめまして。お返事ありがとうございます。『一切皆空』というお言葉、大切に致します。私が何故、「検体(献体)になる」ことを考え始めたらのかと言うと、私の家族・親族の繋がりが、複雑になったからです。母方は、三姉妹ですが、結婚して子ども(私)を授かったのが母1人で、あと2人は独身であり、もう皆60歳が越えています。一方、父方は、兄(父)妹弟の3兄弟で、皆逸れそうに3人ずつ子どもがおり、昔は仲良しでしたが、祖父母が亡くなった後に遺産相続で揉めて、「二度とうちの敷地内に入ってくれるな!」と絶縁されました、しました。そうなると、私は、年齢の順に亡くなっていったとしたら、一番最後です。今のところ、結婚の予定もありませんし、このまま時が過ぎていけば、私は、病院か自宅か分かりませんが、1人で亡くなっていきます。看取る者がおりません。孤独死という可能性が高い方だと思います。ですので、もし、1人で亡くなるとしたら、お葬式も遺骨云々も特別どうできるものでもないので、それなら、将来的ある医学生たちのお役に立てればなと思い、「検体になる」ことを考えるようになりました。全ては「今の時点での意思表示」であります。
いろいろなご意見、お考えをお聞きしておきたい、そう思い、質問しますいただきました。決して、ご回答下さった方々を非難したり、軽蔑したり、見下したり、傷付けよう等とは、これっぽっちも考えておりません。今後の私自身の生き方へのアドバイスとして、受け入れ、進むべき道を選んでいく為の問いかけであります。不快な想いをさせてしまったなら謝ります。申し訳ありません。
様々な人の意見を参考に、自分自身の生き方、考え方を見直し、振り返り、また変えていくことも、時には必要なのではないかと思います。
どなたのお言葉も、無駄には致しませんので、そこのところは、そっと見守っていただけると有り難いです。

大慈様宛のお返事の中に、誤字脱字が2ヵ所ありました。すみません。

2ヵ所でなく3ヵ所も打ちミスが…すみません…。

一応、私も仏教徒…なのではないかと思います。父方が大谷派で母方が本願寺派、自宅にあるのは父方の大谷派のお仏壇。近くの有馬温泉にお骨を納めているお寺さんがあり、自宅にはお坊さまが(節々で)来て下さいますし…。父方の姓を名乗っていますので、私は大谷派ということになるかも知れません…が、父は無関心ですが大谷派は「臓器移植反対」であり、本願寺派だった母は関心を持っておりますが「臓器移植反対」であり…ややこしいですね。それだけ、いろいろな想いがあるということです。

吉武文法様、お返事ありがとうございます。「これが正しい」というものではなく「正しさを求めて迷う私の姿」なので、仏法に照らされながら安心して迷えばよい、との見解。とても良いと思います。私がよく使う言葉があります。「自問自答」ではなく「自問自問」の毎日です、という言葉です。どんなに自分自身に問うて問うて問うてみても、答えなど出ない。そういう意味で「自問自問の毎日です」と言っているのです。今回の「検体になる」についても、ずっとずっと迷いに迷ってきました。しかし、検体になるには、予めいろいろな手続きなどの準備が必要になります。人間、いつ死ぬか分からないのです。若かろうと、ある程「死」の準備をしておかなければなりません。本当に検体になる覚悟はあるのか、考えておきたいと思い、その過程で、様々な方のご意見を賜りたく、今回のテーマをぶつけてみました。お坊さんたちは、どんな風におもうのだろうか、是非ともたくさんお坊さんの集まる場所で問うてみたく、こちらのhasunohaに私の見解を載せさせていただきました。どんなお答えを頂戴してもよいように、心の準備はしておりました故、相反するようなお答えが出ましても、受け入れ、また、受け止めたいと思っております。吉武様からご紹介いただいた本やネット上の情報は、きっと私の「自問自問」の新たなテーマとなることでしょう。いろいろな考え方を頂いたばかりなので、まだ、自分がどうしたいのか、自分なりの結論も出ておりませんし、辿り着いた時には、「ちょうど死んだところ」になるかも知れませんが、その時どうなるかも分かりません。とにかく、様々な方のご意見を参考にしながら、まだ見ぬ世界へと足を進めたいと思います。文面だけでは、なかなか想いは伝わりません。可能な限り、いろいろな方々にお会いし、直接お話ししたいものです。今の私にとって、hasunohaは大切な語りの場です。これからも、お坊さんさま、お1人お1人との出逢いを大切にしていきたいと思います。

私は、私のどんな問い→私へのお返事も、貴重なご意見、また新体験として大切にしていきたいと思っております。どんなにぶったぎられても構いません。どんどんご意見をお聞かせ願えればと思います。どなたに対しても、必ず感謝の気持ちを込め、お返事致します故、どうぞ宜しくお願い申し上げます!!!

願誉浄史様、お返事ありがとうございます。確かに、何をもって脳死を人の死と受け止めるのかは、人それぞれ。意見や想いが割れるのも仕方ないと思います。ですので、願誉浄史様のおっしゃる通り、輸血は、脳死判定を必要としないから問題ない、とのご意見も一理あると思います。感染血を輸血され、その結果、感染症で亡くなることもありますので、必ずしも献血→輸血が救いの道という訳でもありませんし、うーん…この問題を問い、問われを繰り返すのは非常に大変ですが、このような機会は(私には)滅多にないことですので、これからも真剣に 慎重に取り組んで参りたいと思います。

いつの間にか、お坊さま宛の「有り難し」の数が増えていっております。この問いに対して「お坊さまのご意見をお聞きしたい」、「このお坊さまのお言葉、有り難し」と思いタッチする方が多いということは、それなりに皆様の関心度が高い、ということではないでしょうか。私の「煩悩」への「喝」でも構いません。まだまだ、お言葉頂ければ幸いです!

今回、何故私が、たくさんのご意見頂戴したいと思うのか?それは、医療と仏教がより身近な存在になることを願うからです。また、ビハーラ活動に興味を持ったのも、同じ理由からです。医療と仏教の融合は、まだまだ周知、定着しておりません。もっともっと語り合う必要があるのではないでしょうか?

私の意見に、「ちょっと待った!」をかけておられる方々には、一度、『検体になる』と『検体になる(2)』の間に書きました『PURIFICATION』もお読み頂きたく存じます。「臓器移植」に関する資料等々拝見していますと、「医療に対する不信感」が、「(脳死含め)臓器移植反対」にも繋がっている、と思われる文面もごさいます。その不信感が払拭されない背景、また、私自身も歯痒い思いをしている正直な気持ちを書いたのが『PURIFICATION』です。そちらで、私の「医療に対する不信感」を少し述べさせていただいております。

実際に、『PURIFICATION』の回をご覧になられたお坊さまが、先ほど、貴重なご意見をお聞かせ下さいました。私も、皆様と共に、「検体になる」シリーズを深く深く掘り下げていった1人の人間として、最後まで、いや、最後などあり得ぬか?、まぁ、それに相当するところまで、議論を深め、皆様の為にも、自分自身の為にも、新たな「考え方」を提起し、また、自分への「生き方」の参考にさせて頂きたく思います。皆様、どうもありがとうございます。

私の考え方が、「二者択一である」とお感じの皆様には、『1か月後の自分』をご覧頂ければと思います。「何が正しいか」など分かるハズがないですし、「正しい答えなどない」と私自身も実感致しておりますので、私が挑戦していますことを、是非とも、一度と言わず何度も挑戦してみて頂きたいところです。「一言」だけでは無意味なので、どなたかに語りかけるように、毎回、原稿用紙2枚にピッタリおさまるように、「自問自問」を文字におこしてみていただければと思います。

私は、特にヒートアップしているつもりはございませんが、またどんどん「有り難し」が増えていっているような感じですね…うーん…これは、ご覧になられている皆様の「医療と仏教」への関心と何かしらの期待感からでしょうか?それとも、(別にバトルではありませんが)「医療vs.仏教」「一般人vs.お坊さま」をネット越しに見守って下さっているのでしょうか?これを機会に、ご覧になられている皆様に「ビハーラ活動」とは、を検索、傾聴、周知していただく「きっかけ」となることを願うばかりです。

ビハーラ活動をとおして「医療と仏教の共存」「医療と仏教の融合」がもたらすもの。私は多分そこに注目していきたいと思っております。

私は多分そこに注目していきたいと思っております。の、多分、は打ちミスです…

『検体になる(3) ※終わりなき結論』
にて、このシリーズを終了と致しました。
たくさんの方々に出逢えたことに感謝致します。

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