To have a wide variety
私は、ストレートに生きる為に、あえて蛇行します。
人には、それぞれに「基準」があります。
それに基づいて、自分の前にある「選択肢」から、自分が「より良い」と思うものを選択してしまうものです。
私は、ある程度、授業が自由に選択できるようになった大学生の頃から、自らの視野を広げる為に、ある事をしてきました。
興味のある授業と、興味のない授業を、同じぐらいの比率で選んで受講する、という『バラエティーに富んだ』選択方法です。
単なる「屁理屈」と思われるかも知れません。
でも、それが私の私らしさです。
私の性格は、「青臭い」ぐらいストレートで、もし好きなことばかりしていたら、真っ直ぐ生き過ぎて視野が狭くなってしまいがちです。
その為、視野を広げるべく、また、私の夢である『大きな器の人間になりたい』を実現すべく、「興味のないこと」「面倒臭いこと」「やりたくないこと」を「やってみる」という選択肢を取るよう心掛けています。
好きなことは、自然と頑張って出来ます。
だから、嫌いなことを頑張ってみるのです。
狭く浅くでなく、狭く深くでも、広く浅くでもない、「広く深く」を目指しています。
自分で選んだ道ながら、躓くこともしょっちゅうです。
恥ずかしながら、自分でも難しく感じます。
でも、皆平等に時間はあるので、同じ24時間を過ごすなら、「新しい自分発見」に時間を使っても良いのではないか、と思っているのです。
ちゃんと道筋を立てながらも、あえて「蛇行」してみる。
それが、私にとって、一番「ストレートな生き方」です。
全然、「複雑」はでなく、すごく「シンプル」な選択の仕方だと思っています。
新しいことを「やってみる!」は、「苦」でなく「楽」です。
他人から馬鹿げていると思われても、別に構わないのです。
自分の人生「苦楽と共に生きる」。
そんな「蛇行」した生き方をする私は、単なる「ひねくれもの」なのでしょうか?
「自分のことは、自分が一番見えてない」。
そう思っている私は、大馬鹿者なのでしょうか?
「馬鹿で結構」と思う、それが私の生き方。
そんな私をどう思われますか?
叱咤激励、何でも受け入れます!
間違っていたら、ちゃんと修正します!
お坊さまの率直なご意見をお聞かせ下さい!
・仕事は資格より素質 ・鬱になろうが5才児ぐらい好奇心旺盛 ・順風満帆な人生より七転び八起きぐらいの人生がちょうどいい
職場で久しぶりに再会した人に「やっぱり~!」と言われることが苦痛
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ご縁のままに
個人の生き方に正解も間違いもありません。仮に他者からそのような判定をつきつけられようと本人がそれをどう受け止めるかは自由です。
なのでトラス様が「私はこう生きたい」というものに特に何もケチをつけるようことはありませんし、聞いていて素直に素晴らしいなあと思います。
しかしとうのトラス様本人は「こんな私はどうでしょうか?」「あんな私はどうでしょうか?」と気にされておられるご様子。
私としてはそっちの方が気になります。誰かから自分の生き方について評価してもらわないと不安でしょうか?
人間が自分の前にある「選択肢」から、自分が「より良い」と思うものを選択するのはその通りですが、では本当にその選択が思い通りに自分が選択したもので、100%本人に責任があると言えるかと言うとそんなことはありません。
その選択肢はどこから浮かんできたでしょうか?その選択の判断基準・選択の決断はどこから湧いてきたものでしょうか?
それは縁です。自分が出会ったご縁を通して自分が話したこと、考えたこと、為したことが自分を織り成していきます。しかし出会うご縁は選べません。
だからたとえ世間的にはとてつもない間違いだと判断される「選択」であろうと、例えば犯罪を犯してしまうようなケースであろうと、仏教的な視点で見るならば、それはその人に100%責任のある出来事だと断罪するのではなく、私も同じご縁をいただいていたならばそうしていたかもしれないと悲嘆するのです。
だからトラス様がどう生きようと、どう選択しようとそれはトラス様の自由であり、同時にそれはトラス様すらもコントロールできないご縁からのいただきものの中での選択です。
「広く深く」生きたいという思いも、100%トラス様の力だけで思いついて選択したものではなく、トラス様が出会ったご縁を通してトラス様がいただいたものです。
それでも自他の評価は気になるものかもしれませんが、ご自身がいただいたご縁の中で主体性を見出しつつ自信をもって歩んでみてください。
不安になったら仏教の教えと、仏教の教えに出会った自己にたずねていけばよいのです。もちろんお坊さんはそのサポートをさせていただきます。
仏教は中道の教えですから、偏らない生き方、考え方は良いことだと思いますよ。
ただ、いろんなものに手を出し過ぎると、どれも中途半端になる場合がありますね。
そうなると自分に自信がなくなってしまうかもしれません。
ですから、いろいろな物事の中から何か一つか二つに的を絞って、それに集中してみる、という事も良いと思いますよ。
追記
それにしても凄い集中力ですね。
それに比べて私ときたら、月水金曜日は1時間習字の練習しようと思っていたのにいつのまにか・・・。
改めて私も頑張らないとと思いました。
質問者からのお礼
吉武文法様、こんにちは!お返事ありがとうございます。いろいろ経験してみて思ったのは、どの授業もそう、その先生たちの「人生をかけた研究」、「磨き極めた道」がたくさん詰まっているということ。また、私たち学生に「こんな生き方もあるんだよ!」と教えて下さっているのだということ。そういう(確かに)「ご縁」を感じられ、とても楽しかったなぁという記が
あります。私は、どの先生の授業も大好きで、いつも1人、すごく前の席に座って、授業に見入って聞き入っていました。授業の後は、もっとお話しを聞きたいと思い、あれこれ質問したりしていました。一緒に食事させていただいたり、先生の研究室へ招いていただいたり…ま、ちょっと変わった学生だったこともありますが。でも、せっかく出逢えたのだからと、新しい世界を満喫したり探求したり、授業だけでなく、いろんなことに誘っていただいたりしていました。様々な分野の先生や研究との出逢い、それが、「たまたま」でなく「ご縁」というものだったのだなと、吉武様のお返事を読んでいて、気付かされました。「ダライ・ラマ」様の講演に参加出来たのも、その先生方との「ご縁」があったからこそ。他大学ながら、たくさんの先生との「ご縁」があり、私は成長できたのだなと、今、実感しております。これからも、世の中の皆様との出逢い「ご縁」を大切にし、いろんなことに興味を持って、「ご縁」の輪を広げていけたらいいな!と思いました。いつも吉武様の、様々な方への「お返事」、読ませていただいております。キリリとした回答が特徴的で、毎回毎回、とても興味深く拝見させていただいていて、やはり、ちゃんと面と向かってお話しさせていただく機会があれば、嬉しく思います。これからも、どうぞそのキリリときた眼差しで、いろんなご意見賜りたく存じます!宜しくお願い致します!!!
追加です。他人から「評価」されたいのではなく、他人から、自分が気付かないでいること、自分の至らなさを「ご指摘」いただきたいという気持ちはあるのだろうと思います。ご指摘されて初めて気付かされることが多いものです故…。また何かお気付きになりましたら、アドバイス宜しくお願い致します!
三宅聖章様、こんにちは!お返事ありがとうございます。やりたいことが、10個ぐらいなら1つか2つぐらいに絞れるのかも知れませんが、私には100個ぐらいやりたいことがあり、どう絞っても10ぐらいはあろうかと…。なので、私はほとんど寝ていません。処方された睡眠薬を飲んで、やっと1~2時間眠れるぐらいです。1日は24時間あります。結構、学ぶ時間が残っています。同日、同時に複数を学ぶ、というよりは、1週間を1区切りにしている感じです。何故、1週間にしたかと言うと、私の痛い経験上、1週間やり続けた頃に「手が腱鞘炎になる」からです。そして、「貫徹」も1時間が限界です。なので、それ以上、同じことは出来ないのです。笑うしかないぐらいアホなもので…すみません。集中力が高すぎるのが、私の欠点でもあるのです。食事も何もかも忘れがちになりますね…。
すみません。間違えました。『「貫徹」も1時間が限界です。』ではなく『「貫徹」も1週間が限界です。』になります。すみません。
三宅聖章様。ちょっとシャワータイムで、先ほどのお返事から時間が経ってしまいましたが…このコメントも、ご覧いただければなぁ…と思っているところです。誤解されそうな書き方をしましたもので、追加になります。1テーマ、1週間、と書いていますが、1週間で終わり!ではありません。1週間ぶっ通しが私の体力の限界なだけであって、1テーマあたり、何年もかけて学び続けます。倒れない限度が、1週間なだけです。例えば、裁判なら、ちゃんと結審するまで活動を続けるようにしています。他には、例えば、社外秘の報告書をいただいた場合は、1週間後にまた会う約束をして、1週間で私なりの調査報告書を仕上げてお渡ししています。皆、関係(ご縁)は何年間も続きます。そのようにした場合、一定期間、並行して掛け持つテーマが、10個ぐらいはある、ということです。『広く深く』するには、たくさんの時間が必要だと、私は思っています。