それぞれの命の重さについて、閻魔大王様の見方。
当たり前ですが、人間から見て蚊やダニを1匹殺すのと、動物を1匹殺すのでは命の重さが違い過ぎます。
動物1匹と人間1人を殺すには命の重さが違いすぎます。
ここで質問です。
では閻魔大王様や神様から見て、微生物や動物、人間の命の重さに違いはあるのでしょうか❓
違いがあるのであれば、問題無いのですが、
もしも平等であるのなら、家で布団干したり、バルサン焚いたりする行為は、人を千人殺した行為と代わりありません。
そうすれば他界した後、人生で何万人の人を殺したと同じだけの償いをしなければいけないと言う事になります。
閻魔大王様や、神様は、命は平等だと考えて、私達を制裁するでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
追記 命の価値は同じでしょう。
輪廻転生を前提に考えると、昨日あなたが殺した小さな虫が、実はあなたの先祖の生まれかわりかもしれない。
前世であなたの恋人だった美少女が、今は食用ウナギかもしれない。
あなただって、来世はノミやダニかもしれない。
だから生命の重さに差はないと思います。
悟って輪廻転生から解脱し、涅槃に入れば、殺し殺される世界から解放されます。
つまり、成仏すれば、殺す必要も殺される必要もなくなるのです。
仏教を学んで悟りを、輪廻転生からの解脱を、涅槃、成仏を目指しましょう。
で、悟るためには、怒りの煩悩を減らした方が良いのです。
故意に人を殺すような殺意は、自分の怒りを増やす、悪のトレーニングになり、悟りから遠ざかるでしょう。
しかし、故意ではなくアリを踏んでしまった場合、怒りの(悪の)トレーニングにはならないかもしれません。
命の重さは同じですが、殺すときの感情によって罪の重さには違いがあります。
どんな気持ちで殺したかを重視しましょう。
ちなみに、極楽浄土には畜生(動物や虫)はいません。
ということは、極楽浄土では布団にダニはいないので、天日干しも必要ない。
南無阿弥陀仏と念仏をとなえて、とりあえず来世には阿弥陀仏の浄土である極楽浄土に生まれることを目指しても良いですね。
そして、悟りやすい環境である極楽浄土で修行して、輪廻転生からの解脱を目指しましょう。
そうすれば、殺し殺される舞台から降りられます。
追記 8月19日(月)
布団にダニがいるとわかっていて殺している場合、強い怒りや憎しみを持って殺すよりはマシかもしれませんが、罪が全く無いわけではありません。
煩悩は怒りだけではありません。欲や怠けも煩悩であり、悟りの邪魔。
怒りではなく、快楽・娯楽で殺す(趣味の釣り等)ときは、欲の煩悩があるでしょう。
殺さない方法があるのに、面倒臭いから殺すとき(虫を追い払えば済む場合でも叩く等)は、怠けの煩悩があるでしょう。
罪を減らす(悟りに近づく)ためには、欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩に総合的に気をつける必要があります。
殺せば殺すほど殺し癖がつく、盗めば盗むほど盗み癖がつく、嘘をつけばつくほど嘘つき癖がつく。
人の業とはそういうものかも。
人を殺すと罪になるのは人間が作った法律の問題であり、この世の全ての命の大切さは、どんな命でも同じです。
だからこそ私たちは命に対し、常に懺悔し感謝しなくてはなりません。
命とは何か。そして私にとって地獄は一定すみかぞかし。
こんばんは。亀山純史と申します。
「命とは何か。」ということを考えたとき、「命には違いがある。」と言える根拠を、私自身、見出すことは出来ません。知性が高い生き物のほうが、その命は重いのでしょうか。そうであるならば、その根拠は何でしょうか。知性が高いほうが有益だからでしょうか。そうであるならば、有益とは誰にとって有益なのでしょうか。結局、人の命と他の生き物の命に差をつけようとするのは、人間の傲慢でしかないのではないでしょうか。
私たちは、他の命を食することで自らの命を保つように出来ています。また、時には他の命を奪わなければ、自らの命を守ることが出来ない状態も発生します。例えば、家の軒先にスズメバチの巣があれば、それを駆除しなければならないでしょう。
このような私たちですから、親鸞聖人が『歎異抄』で仰せになっておられるように、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」なのです。つまり、「私にとって、どうしても地獄以外に住み家はないのだ。」ということなのです。そして、私はこのような人間観に立って人生を歩んで行きたいと思っています。
りゅうさんのご質問に対する答えにはなっていないかもしれませんが、以上が私からの回答です。
質問者からのお礼
ご回答有難うございます。
命の重さに平等と言う事にですが納得できません。
数千万人を大量虐殺した行為と、布団を天日干しして、ダニを大量虐殺した行為とさほど変わらない事になります。
屁理屈と言われればそれまでですが、本当に命の重さが同じであれば、我々普通に暮らしてる人も、他界すれば、ヒトラーと同じ階級になるわけですね。
勿論、世界の人々が大量虐殺を布団の天日干しと同じ領域と考えてしまえば、世界は滅びると思います。
それともここを追求すると、本当に世界が滅びるから、あえて人間は触れないのでしょうか?
丁寧なご回答有難うございます。
「命の重さは同じですが、殺すときの感情によって罪の重さには違いがあります。
どんな気持ちで殺したかを重視しましょう。」っと言う言葉を聞いて、少し頭がスッキリ致しました。
命の重さは平等ですが、
布団干して大量虐殺しても、
その時の感情は無に近いので、それ程重要視する事ではないと言う解釈で合っていますでしょうか?