hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

善行が他を苦しめたとき

回答数回答 4
有り難し有り難し 116

もちろん悪意あるいじめや悪行はいけません、

しかし善意での行動、もしくは悪意なくとった行動が、他人に対して

肉体的、精神的に苦痛を与えることになった場合も、

己の罪となるのでしょうか

皮肉になってしまいますが、お坊さんの言葉でさえも、聞く人によっては

毒にも薬にもなりますし、その教えによって自殺する人も

生きようと思う人もいるとおもいます

善の行為によって、他人を苦しめてしまうとき、仏教の考えでは

どう対処するのが良いのでしょうか


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

善悪チェックが自他を苦しめる

もっとみんな『完璧に生きることはできない』と気付くべきなんです。

誰かに冷凍の鮭をもらったとします。でも鮭が嫌いだったとします。その時、どう思うでしょうか?

完璧なプレゼントが当たり前だと思っている人は「何これ嫌味?失礼な奴だな」と悪くとるでしょう。一方で完璧に生きることはできないと分かっていれば、「あぁ、難しいよねプレゼントって。あるある。」と思って良くとってあげられるでしょう。

じゃあその鮭はどうしましょうか?お互いに完璧じゃないとダメなら、我慢して食べないといけません。そこでまた「嫌いなものを押し付けられた。失礼な奴だ。」「喜んで食べてくれなかった。失礼な奴だ。」と悪くとるでしょう。でもお互いに完璧に生きることはできないと思っていれば、「申し訳ないけど、もっと鮭を好きな人に食べてもらおう。」と回すことができます。プレゼントした側も「仕方ないね。私も完璧なプレゼントをすることはできないのだもの。そこは受け取った人の自由で私が口を出すことじゃない。次のためにあの人は鮭は好きじゃないって覚えておこう。」というように相手のことも自分のことも許すことができます。

楽に生きられる社会とは、どちらでしょうか?当然、お互いに許し合う社会、つまり完璧に生きることはできないと知っている社会です。

一切皆苦という言葉があります。苦とは「辛い苦しい」の苦ではなく、「思い通りにならない」(dukkha)という意味です。つまり「思い通りにしてやろう」「完璧にしてやろう」と思っている限り、どこで何をやっても苦しむのはアナタ自身ですよということです。
もっと言えばそういう考え方をしている限り、お釈迦さまや涅槃にさえ自分基準でケチをつけて、自分で自分の救いを遠ざけたり、社会に息苦しさを与える人になっちゃいますよということです。その「自分基準のケチ」が『一切の生まれたもの(行)は苦である』ということですよね。

仏教は他人を採点したり間違い探しのチェックシートに使ってはなりません。そういう人が増えるとクレーマー社会になります。完璧を手放すために仏教を学び、日本はもっと寛容に向かうべきです。

{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
このお坊さんを応援する

善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり(歎異抄・親鸞)

ご相談拝読しました。おっしゃることはごもっともだと思います。良かれと思っても相手を苦しめてしまうことは私たち人間には多々あります。

それは私たちが凡夫(ぼんぶ)だからです。凡夫というのは死ぬその時まで怒り腹立ちそねみねたむような存在であるというのが浄土真宗の人間観です。

その様々な煩悩は無明(むみょう)という根本的無知に基づきます。無知、つまりわからんということです。何がわからないかというと、善悪です。何が善で何が悪かなどわからないというのが凡夫である人間の姿です。

仏教的に言うならば悟り・涅槃に近づくのが善、遠ざかるのが悪と言えるでしょう。しかし私たちには何が善で何が悪かは判断が尽きませんし、自分が善と信じたものでたとえそれが仏教的解釈に依れば概ね善行為であろうと推察されるような行為であっても、受けての側が仏教的解釈ではなく、世俗的な解釈での受け取り方しかできないようであれば相手を苦しめることもあるでしょう。

釈尊ならばそうした相手の機根(きこん)=「能力や状況」に応じて適切な説法をなされるのでしょうが私たちは僧侶といえど凡夫ですからそうではありません。

したがって、してしまったことに「対処」などしようがないともいえるのかもしれません。一度したことは取り返しが尽きませんからね。
だからといって何もしないというわけではなく、慙愧・懺悔にもとづき謝罪やできるだけの償いをすることは大切でありましょう。

そんな私たちだからこそ、一つ一つの自分の行為が善か悪かという分別に終始するのではなく、無明という根本的無知を具えたものである、つまりは存在自体が罪悪性を帯びており、縁によっては何をしでかすかわからないという自らの本当の姿に目覚めさせていただくことが肝要でありましょう。

その道は浄土真宗においては聞法と称名であります。自らが悟るまでは何もできないと開き直って何もしないのでもなく、悟ったような顔をして他を救ってやるぞと振舞うのでもなく、私も他の皆も共に救われていく者として出会うことを願っての聞法と称名です。

私もここhasunohaの回答で厳しいお返事をいただいたことも、抗議のお手紙を頂戴したこともあります。本当に厳しく有難いご縁でした。
これからも引き続き、そうした皆様とも共に教えに出会っていけましたら幸いです。

{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
このお坊さんを応援する

行為そのものは空(くう)

こんにちは。亀山純史と申します。

人によっては毒が薬にもなるように、「はじめに善行ありき」ではありません。毒が薬になることもあれば、薬が毒になることもあります。毒が薬になるとき、その毒は悪ではありません。薬が毒になるとき、薬は善ではありません。したがって、それが善行かどうかは、結果から遡って判断する必要があるでしょう。行為そのものは空(くう)です。善くも悪くもないのです。ですから、善意で行った行為でも、それを受けた人を苦しめてしまったならば、それはその人にとっては、善の行為とは言えないでしょう。逆に同じ行為でも、それが薬になる人にとっては、善の行為になるでしょう。

私たちは「善い行いをしよう。」「悪い行いはしないようにしよう。」とします。それはとても大切なことで、尊いことです。しかし、「私は善い行いをした。」という思いに縛られてはいけないのです。「善い行いであった。」とは、その行いを受けた人が判断することでしょう。

以上が私からの回答です。ご参考になさってみてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
このお坊さんを応援する

『懺悔文(さんげもん)』〈善悪を離れて生きる〉。

私たちは懺悔文(さんげもん)という言葉を唱えますが、ご存知でしょうか。
「悪いことをしたと思ったら懺悔しよう。申し訳ないと思ったら手を合わせて反省しよう。」
大体そんな意味になります。

でも、おっしゃるように
良かれと思ってしたことが、相手を苦しめてしまった、ということもありそうですね。
仏教では、善いことをしていても結局私たちはいつも自分が自分が、という心で物事にあたるから、苦しみが消えるかどうか分からない、と説きます。

ですからむしろ
善いことをしたときこそ懺悔しなくてはならないのです。
たぶん。
仏教的にはそう言わざるを得ないのではないか?と私は感じています。

そういうこと言うと「うわーネガティブー」と思われるかもしれませんね。
でも結構明るいですよ。むしろやらないと
「善いことをした」自分がどんどん肥大化していきますから
いずれ「こんなに善いことしたのに!」って想いや苦しみが、本人を中心に周りに広がってしまって卑屈になっちゃうように思うんです。
最初はいいんですよ。「自分もうれしい、あなたもうれしい」がその人が個人でできる最善だとは思います。

でもやっぱり行き過ぎには気をつけような。
って仏さまは教えてくださっているように私は思うんです。
善か悪かというよりも
その人と相手の方との間の信頼関係というのでしょうか。相手が何を抱えているのか、苦しんでいるのか。無理のない範囲で看て取って共感できるかどうかにかかっているのでしょう。

そのためには、そういう『懺悔』の心が一番ではないかと思います。
相手を一番に考えることが苦にならなくなる心だからです。
本当にそうなったら楽でしょうね。

『善の行為によって、他人を苦しめてしまうとき』に限らず
そんな生き方ができると
仏教が示す『善悪を離れて生きる』心になれるのではないでしょうか。

私自身、募金の一環で托鉢をしていたら
通りがかりの人に怒鳴られてしまったことがあります。
苦しいこともあるとは思いますが
そういう時こそ苦しみからいつでも学んで前を向いていけたらいいなと
そう願っています。

{{count}}
有り難し
おきもち

吉井浩文
Buddhism. knowing what it actually i...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

皆様ありがとうございました

「苦しい・苦しみからの解放」問答一覧

妄想から抜け出したいけど…

私には強い妄想癖があります。 過去の辛い出来事がきっかけで妄想に逃げ込み、いつの間にか妄想の世界で生きていました。 妄想の世界は楽しいです。自分が凄くなったように思えるし、皆が良くしてくれる。しかし、最近は色々あって妄想が苦しくなってきてしまい、現実を垣間見ることも多くなってきました。そしてふと現実を見るとふわふわしたり心にぽっかりと穴が空いたような気分になるのです。 なんというか自分は妄想のしすぎで妄想の世界での自己の確立が過度になりすぎていたのかもしれません。しかし、先程も言ったとおり妄想の世界が苦しくなってきた今、現実とのギャップに悩まされることが多くなりました。 私もこれをきっかけに現実を見て自分を変えていかないと…。と思うのですが、楽しい妄想の世界が消えることや現実への恐怖感、理想の自分と現実のギャップ、そして妄想の自分とは違い、自分がない、現実の自分には凄いところなんて何もないということを突きつけられるからか苦しみや恐怖、焦躁感や自己嫌悪に襲われます。 正直、今までもこういったことはあったのですが、その度に妄想の世界に逆戻りということを繰り返していました。今回も下手するとまたこのような悪循環に陥ってしまうんじゃ…といった思いもあります。 どうすればこの苦しさや恐怖を断ち切ることができるでしょうか?どうすれば妄想から抜け出して現実を生きれるようになるのでしょうか?

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

毎日不安で苦しいです

現在、お付き合いして10ヶ月ほどになる彼がいます。 彼とは半同棲で鍵をもらっており、自由に入って良い状態で信用されていると思います。 先日、彼が昔使用していたスマホが出てきました。 中身は見ていませんが、マッチングアプリが入っていることが見えてしまいました。 見た瞬間すごくショックで手が震えましたが彼はマッチングアプリをやるような人と思えず、見なかったことにしようと思いました。 しかし、やはりモヤモヤしてしまう為、アプリ欄を見てしまった謝罪と共に真相を聞きました。 すると「使ってないよ、すごく昔のスマホでアプリがそのままになっていただけだよ。ごめんね」とのこと。 しかし私からすると、彼女がいるのに登録したままいることに違和感があり、退会しないのか問うと「するよ」との返答。 私から聞かなければきっと退会すると自分から言ってくれなかったのだろうと思ったのと、彼女が不安に思っていることを無くそうと努力をしてくれないのか?と悲しくなりました。 アプリは私の希望で目の前で退会してもらいましたが、本当に使用していないのか、メッセージ欄を見せて貰えば安心できたかもしれない…と後悔しています。 古いスマホは、現在使用しているスマホの容量が足りなくなったから入れ替える為に使っていただけだよと言われ、それは本当にそうだと思うし、Wi-Fiに繋げなければ使えない状態でマッチングアプリを使用する意味がわからないので使っていないことは信じたつもりです。(彼女がいない時に使っている分には全然気にしないので、過去のことだと気にしないようにしました) 話は一応解決しましたが、そこから毎日ネガティブな妄想が止まらずにいます。 本当は浮気用のスマホで、とんでもない遊び人だったらどうしよう 最近家の中でもスマホを離さない気がする 浮気相手のLINEの通知は来ないようにしているのでは?など 今まで心から信用できる相手で不安になることがなかったのに、ここに来てこの一件で全てネガティブになり眠れない日が続いています。 終わった話なのでまた掘り返すのが嫌で我慢していますが、毎日苦しくて食欲もない日が続き、どうしたらいいか分かりません。 話して面倒と思われる相手ならそれまでの男というのもわかるのですが大好きなので別れることになるなら我慢しよう。と思ってしまいます。 安心できる言葉を頂きたいです。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

生き方の正解がわかりません

よろしくお願いします。 少し前に父が亡くなりました。 兄弟が複数人います。 遺産相続で揉めに揉めました。あまりに酷いやり方に私と1人の兄弟は相続放棄し、結果的に傲慢な人たちだけが相続するという形になりました。 口ではこれからは母を守るし、詐欺にあったら助けるなどと夢物語ばかり上等なことを言います。 でも現実は、初盆の準備や片付けなど一切せず香典も出しませんでした。 昔から母の様子を見たりお墓参りをするのは放棄した側です。 相続した側から「貰える物は貰えばいいのに〜。面倒なことはやりたい奴にやらせておけばいい」と見下され笑われました。 兄弟の考え方に触れるたびに 真面目すぎて融通が効かない自分のことが嫌いになります。 終わってみれば相続した側は得しかしていません。 自分のために人が世話を焼くのは当たり前のことで、そこに何の感情もないようです。 本人はただあるがままに生きているので悪気がなく「俺の言う通りにしないやつが悪い」と平然と言います。 いつかバチが当たると思っていましたが、実際には得しかしていません。 最近は私の方がずれていておかしいんじゃないかと思い始めてきました。 間違った生き方をしているのは私の方で、感謝や慈悲なんて実はなくてもいいことなんじゃないかと… もう生き方がわからなくなってしまいました。 相続に勝ったと笑っている人たちのことを指をくわえて見ながら雑用をやっている姿を 我が子が見て育つと思うと、私のようになって欲しくありません。 私は頑張って相続するべきだったのでしょうか。 ズルさや傲慢は私が思うほど悪いことではないのでしょうか。 相続以外でもずっと損をしている自覚があるにも関わらず改善されないのは、やはり私に問題があるのだと思います。 でも生き方の正解がわからなくてすごく苦しいです。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ