善行が他を苦しめたとき
もちろん悪意あるいじめや悪行はいけません、
しかし善意での行動、もしくは悪意なくとった行動が、他人に対して
肉体的、精神的に苦痛を与えることになった場合も、
己の罪となるのでしょうか
皮肉になってしまいますが、お坊さんの言葉でさえも、聞く人によっては
毒にも薬にもなりますし、その教えによって自殺する人も
生きようと思う人もいるとおもいます
善の行為によって、他人を苦しめてしまうとき、仏教の考えでは
どう対処するのが良いのでしょうか
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
善悪チェックが自他を苦しめる
もっとみんな『完璧に生きることはできない』と気付くべきなんです。
誰かに冷凍の鮭をもらったとします。でも鮭が嫌いだったとします。その時、どう思うでしょうか?
完璧なプレゼントが当たり前だと思っている人は「何これ嫌味?失礼な奴だな」と悪くとるでしょう。一方で完璧に生きることはできないと分かっていれば、「あぁ、難しいよねプレゼントって。あるある。」と思って良くとってあげられるでしょう。
じゃあその鮭はどうしましょうか?お互いに完璧じゃないとダメなら、我慢して食べないといけません。そこでまた「嫌いなものを押し付けられた。失礼な奴だ。」「喜んで食べてくれなかった。失礼な奴だ。」と悪くとるでしょう。でもお互いに完璧に生きることはできないと思っていれば、「申し訳ないけど、もっと鮭を好きな人に食べてもらおう。」と回すことができます。プレゼントした側も「仕方ないね。私も完璧なプレゼントをすることはできないのだもの。そこは受け取った人の自由で私が口を出すことじゃない。次のためにあの人は鮭は好きじゃないって覚えておこう。」というように相手のことも自分のことも許すことができます。
楽に生きられる社会とは、どちらでしょうか?当然、お互いに許し合う社会、つまり完璧に生きることはできないと知っている社会です。
一切皆苦という言葉があります。苦とは「辛い苦しい」の苦ではなく、「思い通りにならない」(dukkha)という意味です。つまり「思い通りにしてやろう」「完璧にしてやろう」と思っている限り、どこで何をやっても苦しむのはアナタ自身ですよということです。
もっと言えばそういう考え方をしている限り、お釈迦さまや涅槃にさえ自分基準でケチをつけて、自分で自分の救いを遠ざけたり、社会に息苦しさを与える人になっちゃいますよということです。その「自分基準のケチ」が『一切の生まれたもの(行)は苦である』ということですよね。
仏教は他人を採点したり間違い探しのチェックシートに使ってはなりません。そういう人が増えるとクレーマー社会になります。完璧を手放すために仏教を学び、日本はもっと寛容に向かうべきです。
善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり(歎異抄・親鸞)
ご相談拝読しました。おっしゃることはごもっともだと思います。良かれと思っても相手を苦しめてしまうことは私たち人間には多々あります。
それは私たちが凡夫(ぼんぶ)だからです。凡夫というのは死ぬその時まで怒り腹立ちそねみねたむような存在であるというのが浄土真宗の人間観です。
その様々な煩悩は無明(むみょう)という根本的無知に基づきます。無知、つまりわからんということです。何がわからないかというと、善悪です。何が善で何が悪かなどわからないというのが凡夫である人間の姿です。
仏教的に言うならば悟り・涅槃に近づくのが善、遠ざかるのが悪と言えるでしょう。しかし私たちには何が善で何が悪かは判断が尽きませんし、自分が善と信じたものでたとえそれが仏教的解釈に依れば概ね善行為であろうと推察されるような行為であっても、受けての側が仏教的解釈ではなく、世俗的な解釈での受け取り方しかできないようであれば相手を苦しめることもあるでしょう。
釈尊ならばそうした相手の機根(きこん)=「能力や状況」に応じて適切な説法をなされるのでしょうが私たちは僧侶といえど凡夫ですからそうではありません。
したがって、してしまったことに「対処」などしようがないともいえるのかもしれません。一度したことは取り返しが尽きませんからね。
だからといって何もしないというわけではなく、慙愧・懺悔にもとづき謝罪やできるだけの償いをすることは大切でありましょう。
そんな私たちだからこそ、一つ一つの自分の行為が善か悪かという分別に終始するのではなく、無明という根本的無知を具えたものである、つまりは存在自体が罪悪性を帯びており、縁によっては何をしでかすかわからないという自らの本当の姿に目覚めさせていただくことが肝要でありましょう。
その道は浄土真宗においては聞法と称名であります。自らが悟るまでは何もできないと開き直って何もしないのでもなく、悟ったような顔をして他を救ってやるぞと振舞うのでもなく、私も他の皆も共に救われていく者として出会うことを願っての聞法と称名です。
私もここhasunohaの回答で厳しいお返事をいただいたことも、抗議のお手紙を頂戴したこともあります。本当に厳しく有難いご縁でした。
これからも引き続き、そうした皆様とも共に教えに出会っていけましたら幸いです。
行為そのものは空(くう)
こんにちは。亀山純史と申します。
人によっては毒が薬にもなるように、「はじめに善行ありき」ではありません。毒が薬になることもあれば、薬が毒になることもあります。毒が薬になるとき、その毒は悪ではありません。薬が毒になるとき、薬は善ではありません。したがって、それが善行かどうかは、結果から遡って判断する必要があるでしょう。行為そのものは空(くう)です。善くも悪くもないのです。ですから、善意で行った行為でも、それを受けた人を苦しめてしまったならば、それはその人にとっては、善の行為とは言えないでしょう。逆に同じ行為でも、それが薬になる人にとっては、善の行為になるでしょう。
私たちは「善い行いをしよう。」「悪い行いはしないようにしよう。」とします。それはとても大切なことで、尊いことです。しかし、「私は善い行いをした。」という思いに縛られてはいけないのです。「善い行いであった。」とは、その行いを受けた人が判断することでしょう。
以上が私からの回答です。ご参考になさってみてください。
『懺悔文(さんげもん)』〈善悪を離れて生きる〉。
私たちは懺悔文(さんげもん)という言葉を唱えますが、ご存知でしょうか。
「悪いことをしたと思ったら懺悔しよう。申し訳ないと思ったら手を合わせて反省しよう。」
大体そんな意味になります。
でも、おっしゃるように
良かれと思ってしたことが、相手を苦しめてしまった、ということもありそうですね。
仏教では、善いことをしていても結局私たちはいつも自分が自分が、という心で物事にあたるから、苦しみが消えるかどうか分からない、と説きます。
ですからむしろ
善いことをしたときこそ懺悔しなくてはならないのです。
たぶん。
仏教的にはそう言わざるを得ないのではないか?と私は感じています。
そういうこと言うと「うわーネガティブー」と思われるかもしれませんね。
でも結構明るいですよ。むしろやらないと
「善いことをした」自分がどんどん肥大化していきますから
いずれ「こんなに善いことしたのに!」って想いや苦しみが、本人を中心に周りに広がってしまって卑屈になっちゃうように思うんです。
最初はいいんですよ。「自分もうれしい、あなたもうれしい」がその人が個人でできる最善だとは思います。
でもやっぱり行き過ぎには気をつけような。
って仏さまは教えてくださっているように私は思うんです。
善か悪かというよりも
その人と相手の方との間の信頼関係というのでしょうか。相手が何を抱えているのか、苦しんでいるのか。無理のない範囲で看て取って共感できるかどうかにかかっているのでしょう。
そのためには、そういう『懺悔』の心が一番ではないかと思います。
相手を一番に考えることが苦にならなくなる心だからです。
本当にそうなったら楽でしょうね。
『善の行為によって、他人を苦しめてしまうとき』に限らず
そんな生き方ができると
仏教が示す『善悪を離れて生きる』心になれるのではないでしょうか。
私自身、募金の一環で托鉢をしていたら
通りがかりの人に怒鳴られてしまったことがあります。
苦しいこともあるとは思いますが
そういう時こそ苦しみからいつでも学んで前を向いていけたらいいなと
そう願っています。
質問者からのお礼
皆様ありがとうございました