自由の意味について
見つけてくださってありがとうございます。
自由とはなんでしょうか。
自由の中に縛りがあり、縛りの中にも自由があると思います。
例えば、学校。学校は時間割、先生の考え方、などの縛りがあります。ですが、その中に、自分で考え方で問題に取り組む自由、授業をサボる自由(あんまりよくないかもしれません)があります。
自分の決定した意思の中での活動は、本当に自由なのでしょうか。 自由の正体とはなんでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あるでもないしないでもない
「自由とは何か」とは良いところに目をつけられましたね。深いテーマです。
「自由」といってもそれは「〇〇の自由」というように議論にはその主体が必要となります。「私の自由」としたならば、仏教的にみればそれは否定されるべきものであるでしょう。
なぜならば自由の主体である「私」という存在はこの世のどこにも認められないからです。「無我」ということですね。これが「私」だ、これが「我」だと規定できるものは何もないということです。心も体も「私」の本体ではありません。
さらに言うならば仏教の真理の一つに「一切皆(行)苦」があります。仏教で「苦」とは「思い通りにならない」というニュアンスの意味です。「一切(の作られたもの)は全て思い通りにならないものである」という真理です。まさに自由とは正反対ですね。
例えば目の前にある何かを掴もうとする時、掴むか掴まないかは「私の自由」でしょうか。
そうではありません。「掴む」という選択をしたとしても、実際に掴む瞬間に地震が起きたりミサイルが突っ込んできたりしたら掴むことはできません。
つまり「掴む」という単純な行為にしても何らかの条件が「ある」「ない」ということによって左右されるのです。
では行為はままならないにしろ、「掴む・掴まない」という意志(態度)選択は自由でしょうか。
これも厳密に言えば自由ではないのでしょう。掴むという単純な意思決定においてもなぜ私が掴むという気持ちに傾いたのかはそれまでの私を形成してきたご縁によるのです。
例をもう少し複雑にするとわかりやすいですね。就職活動でA社とB社に内定した場合にどちらに入社するかという選択は私の自由でしょうか。A社にするならばなぜなのか、B社にするのはなぜなのか。たとえばB社の企業理念に惹かれたとしたら、なぜ私はそこに惹かれるような私になっていたのか、というとそれは私の思い通りにそうなったわけではないことはあきらかでしょう。
しかしこれは運命論ではないのです。運命とは最初から最後まで全部決まってしまっているということです。
仏教において現象の成立は因縁生起です。原因と条件においてものごとは生まれ起こるのです。
つまりたとえ思い通りにならないとしても私の意志(態度選択)は今これからの縁において無関係ではないのだと思います。
自由ではないが完全な不自由ではないというところでしょうか。
自由とは、他との関係性の中での自らの選択
こんばんは。亀山純史と申します。
「自由」を辞書で引くと、「自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。」と定義されていました。
では、「自由の正体」とは何なのでしょうか。私たちは他との関係性の上に生きています。所謂、この世界は縁起による世界なのです。ですから、当然、「自分の意のまま」といっても、そこには他との関係性を除外視することは出来ません。「他との関係性の中での自らの選択」が「自由の正体」ではないでしょうか。つまり、自由とは、自分の意のままに、と言っても、その自分の意思は他のものによって形作られている、ということです。
たとえば、明日、職場に出勤するかしないかは、私の自由です。そして、今の私の意思は「出勤する」で、それが私の意思なわけです。しかし、この「出勤する」という選択肢は、私が社会的存在であり、仕事をしなければ人に迷惑がかかる、自分に給料が入ってこない等、の他との関わり合いに基づくものです。
「自由」といえども、他との関係性(縁起)を離れては存在しない、ということです。
以上が私からの回答です。ご参考になれば幸いです。
質問者からのお礼
ありがとうございました。
自由とは,何かに束縛されないで自分のやりたいことをやりたい放題することではないのですね・・・。何にもとらわれない解放ではないのですね・・・。何かを選ぶのにも,今までの自分やほかの何かとの関係があり,私たちはその中で何かを選んで生きてるんですね( *´艸`)