回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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死後は既に終わっている。
私自身は、今が苦しいので
死後も、「苦しんで生きる」だろうと思います。
と同時に
仏の道に生きているので
おかげさまで
死後も「仏の道を生きる」ことができるのだと思って安心しています。
仏の道とは、私の苦しみによって
輪郭がはっきりしてくるものと思っています。
今も生と死が瞬間ごとに同時に生まれつつ消えつつ
私を生きているのが分かります。
同様に「ありがたい」と「苦しい」が同時に生きつつ死につつ
仏の道を行くのが分かるでしょう。
死後と言いますが、私たちはいつでも死後です。
仏の道を行くならば
そのようにいつでも「苦しみだけではない」世界が
私たちを支えてくれるものと思います。
その時、「苦しい」は終わっています。
死後も終わっています。
そしてまた何かがはじまる。
もし私が死んだら
どうかそのように弔ってください。見ず知らずですけど。
私へのお供え物は、お水一杯だけでいいそうです。
南無釈迦牟尼仏 合掌
【追記】
『今、現在も常に何かが死んで、常に今がはじまっているから今も死後。という事でしょうか?』
逆に、何かが死んでこその現在で、常に死後だから、いつでもなにかを始められると思っていただきたいです。
いつでも「死後、おわり」でしょうし、同時に
いつでも「はじまり」でもあるから、いつも新鮮な気持ちでいられると思っています。
はやくこの苦しみ終わってほしいと思いますよね。
でもいつも「終わり、死後」だから。いつでも変えられるし、はじめることができます。
全て終わりだけがあると思えば、その結末はすぐに理解できなくても、認めざるを得なくなります。
良かったらなにかをはじめてみてください。次の今につながりそうなものを。
質問者からのお礼
吉井 浩文 様
ご回答、有難うございます。
今、現在も常に何かが死んで、常に今がはじまっているから今も死後。という事でしょうか?
吉井 浩文 様
追記、有難うございます。
「いつでも変えられるし、はじめられる」そうか、そう思いました。
もう客先を辞めたから、ランチのとき、消臭剤をかけられる事もない。派遣切りを楽しまれる事もない。あの地獄は終わったんだ。
新しい客先を探します。
今後のスキルのために、勉強もしていこう、そう思います。