死に方について回答受付中
現在27歳、死んだ後のことを考えることが増えました。
理由としてはいくつかあります。
ひとつめは、自分が鬱病のような状態になり、死を考えたこと。
ふたつめは、結婚してすぐ義母に終身保険の契約や自分のお墓を考えるよう言われたこと。
みっつめは、結婚式の仕事に携わろうとしたところ葬式の勉強もすることになり、人の死のエピソードや葬式について知る時間が増えたことです。
遺言書の準備はもう既にし始めています。お墓も資料請求しました。自分の葬式のこともどの程度やるのか考え始めています。また遺される人についても考えています。
早すぎるとは思いながらも、大事なことだという意識もあり、やめられません。
この年齢で死を考えるのはやはりおかしいでしょうか。どうしたら前向きに生きることを最優先に考えられるでしょうか。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
おかしくなんて、まったくありません。
死を考えることは、「生」を考えること。仏教では、「死を想え」「死を観じることで、生き方が整う」という教えがあります。
あなたのように鬱のような状態を経験した、家族から死について話をされる機会があった、葬儀や儀礼の世界に触れたという状況なら、自然と「死」が意識にのぼってくるのは、それだけ人生をまっすぐに見ようとしている証です。
「遺される人のことを考える」という優しさ、遺言書を準備したり、葬儀やお墓の資料を集めたり、残される誰かのことを思いやる、あなたの優しさの現れでもありますよね。それに、そういう備えをすることは死を待つことではなく、生きている今を、どう安心して過ごすかに関わる行動でもあるのです。
前向きに生きるために、できること、「死を考える時間が増えて、前向きに生きることが難しくなっている」その気持ちも、とても大切なサインです。
以下のような問いかけや実践を、よかったら試してみてください。
1. 「どんな風に死にたいか」ではなく、「どんな風に生きていたいか」
たとえば、こんな問いはいかがでしょう?
今日が人生最後の日だとしたら、どんな1日にしたいですか?
100歳まで生きるとしたら、何を大切にして生きていたいですか?
「死を想う」からこそ、「どう生きるか」が、あなたの言葉で描けるようになります。
2. 「死」と「今」を分けずに捉える
仏教では「生死一如」といって、生と死はつながっている一つのものだと説かれます。
「死を考える私はおかしい」と切り分けるのではなく、「死を考える自分を、そのまま認めて、生きる力にしていく」、そう思えるようになると、少しずつ心も軽くなっていくかもしれません。
3. 対話をする
今こうして、誰かに自分の思いを打ち明けたこと。
それ自体がすでに、「前を向く」ための第一歩です。
話してもいい相手がいるなら、ぜひ自分の考えを言葉にしてみてください。
安心して語れる場所があるなら、参加してみるのもおすすめです。
最後に、あなたのように、静かに、真剣に、死と向き合っている若い方がいることに、私は希望を感じます。
そして、あなたが「前向きに生きることも大切にしたい」と願っているその姿勢が、“生きる力”を証明しています。
焦らなくて大丈夫です。
今のあなたのままで、十分に尊く、まっすぐに生きているのですから。
どうかその歩みを大切に。
合掌
拝読させて頂きました。
あなたが死に方について様々にお考えなさっていることを読ませて頂きました。あなたがそのように思わることはとてもいいと私は思います。
極論ではなく私達は誰であってもいつか亡くなります。必ず死を迎えることになります。それは今次の瞬間かもしれませんし、数日後かもしれません、或いは半年後かもしれませんし、1年後・3年後・10年後・30年後・50年後かもしれません。
それはわからないですが、確実なことは必ずその命終わる時がくるということです。
あなたが様々なきっかけで自らの死を考えて様々なことに取り組まれることはいいと私は思います。
遺言書を作成することもいいと思います。お墓やお葬式のご準備をなさることもいいと思います。残された方々のために様々ご準備なさっていくことはとてもありがたいことですからね。
できれば合間合間の遺言書についても見直しをしていくこともアリだと思います。これから生きていく中で自ずと環境や状況や家族構成、自分の考え方や価値観や優先順位も変わっていきますからね。ですから書き換えていくこともとてもいいと思います。
そして死に向き合いながらこれからの時間をどのようにいきていくことが自分にとっては望ましいのか落ち着いて考えていくことがとても大事になっていくでしょう。
今自分の生きることになかなか前向きになれないかもしれませんが、これからの様々な出会いやご縁や色々な出来事を通して感じたこと味わったこと、そこからまた残された人生をどう生きるのか、何を信じて何を大切にして生きるのかじっくりとお考えなさってみましょう。
あなたが与えられた命や人生にしっかりとお向き合いなさり、自分を周りを大切にしながら一時いっときを充実なさって生き抜いていかれます様に切に祈っております。至心合掌
質問者からのお礼
「遺される人のことを考える」という優しさ、遺言書を準備したり、葬儀やお墓の資料を集めたり、残される誰かのことを思いやる、あなたの優しさの現れでもある。そういう備えをすることは死を待つことではなく、生きている今を、どう安心して過ごすかに関わる行動でもある…この言葉に凄く救われました。
また、 「どんな風に死にたいか」ではなく、「どんな風に生きていたいか」 今日が人生最後の日だとしたら、どんな1日にしたいですか?という問いかけもこの繋がりから考えると凄く腑に落ちました。
鬱病の私を見ていた夫は、死を見つめる私を不満に思っていました。それはそうだと思います。
でも私はたとえ遺されるのが夫だったとしたら、夫の気持ちを少しでも楽にしたいと考えていました。それをわかって欲しいとも思っていました。
結局は葬式って本人のためというよりかは、遺された人達がどう受け入れて生きていくか、どう受け入れたらこの先生きられるかを考えるための儀式だと考えています。
でも「どう生きるか」も遺される人にとっても大事なことだと気づかされました。ありがとうございます。