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死後どうなるのか怖い

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お世話になっております。前回、死ぬ時の苦痛が怖いと質問させていただきましたが、もうひとつ死んだ後自分はさ迷うのか、地獄に行くのか、消滅するのか、あるいは霊界みたいなところに行くのか 等考えていると不安と恐怖にさいなまれます。別に悪い事はしていないので地獄行きはないと思いたいですが。私には子供がいませんので私の家系は私で完全に終わります。なので私を供養してくれる人もいません。なので現世をさ迷うのでしょうか?実際死んだら人間はどういう風になるのでしょうか?詳しく教えてください。信仰心はありますが100パーセントではなく30パーセントぐらい疑っているようなところがありますが、信仰心と死んだ後の処遇は関係性がありますでしょうか?

2025年5月17日 10:36

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

地獄となる作用やハタラキを生み出さないことで地獄はなくなる

わかりやすく自己中心的で非道な犯罪を犯した凶悪犯罪者のケースで考えてみましょう。
その人は生きていながら現世で地獄を作り続けた。
関係ない人や家族に危害を加えた。地獄はどこに生まれるか。
人の道外れな悪い行いによってその時、その場に作られる。
そして、その負の影響は大きな広がりを持つ。時間と空間を超えて負の影響・作用、地獄界となる。実際にその人が死んでも続く。国同士で争い合っている国をご覧ください。歴史の中で先人が地獄を作ったために報復をする。再び地獄が生まれる。
平和に暮らしていた人もそのたった一人の悪行のせいで家族の幸せな生活まで狂わされた。被害にあった本人のみならず家族までも。周りの人まで病む。その時点でも地獄世界でしょう。許せない気持ち、怒り、人間不信、不安、怨念、報われない気持ち。本人も迷い苦しみの地獄界の精神にとりつかれているから周りもその負の作用で病んでしまうわけです。そういう悪の原因結果を生み出すことこそ地獄の誕生、地獄の現場なのですよ。死後の世界から発することではありません。この現世でどこかで小さな地獄、負の作用が生ずることで、また、その病んだ精神が新地獄をつくる。周りの人にも負担やダメージが生ずる、ケアする必要も生ずる。また、誰かの負担になる。精神世界とは無いのではない。作用として実際に影響力を及ぼしている。だからこそ地獄は各地に生まれているのです。だから、あなたもそういうことを今後生み出さないためにも仏の教えに従って生きれば地獄は生まれなくなる。徳行を行なえば地獄が浄化される功徳となりましょう。
その人の作用は死後どこへ行くか。どこへ行くも何もすでに地獄を広げている。そういう道に外れた人、反社、非道なことをする人とは誰も関わりたくないでしょう。人が悪事をなすのも悪の原因、負の因があったからそうしたという面もありましょうが、それでもその悪の因縁を断ち切ることがなかったらめに負の作用、悪の作用、悪の影響力を生み出してしまうわけです。
だからこそ!「生き方」が自身の供養にもなるのです。
自ら進んで正しい信仰心、菩提心を発してください。
可能な限りこの世に善因善種を生み出すことで、あなたの善き功徳によって救われる人が生まれ、あなたの死後も救われる人が誕生するのです。お釈迦様や祖師と共に生きることです。そういう生き方をされれば自ずから皆が礼敬するのです。

2025年5月17日 16:36
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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ご相談くださり、ありがとうございます。
死を考えるとき、誰にも答えを教えてもらえない不安に襲われるのは、決しておかしいことではありません。

むしろそれは、「自分の命を大切に見つめている証」であり、深い感受性の現れです。

仏教には様々な教えがありますが、浄土真宗ではとても明快に、こう説かれています。

「どんな人も、阿弥陀仏のはたらきによって、迷うことなく極楽浄土に生まれる」

それは、私たちの信心の強さや、どれだけ徳を積んだかではなく、「救われたい」「不安を和らげたい」と願うすべての人に向けられた、仏の無条件の慈悲です。

あなたが恐れておられる「さまよう」「地獄へ落ちる」といった不安は、多くの人が抱く自然な感情です。

けれど浄土真宗では、「そうした恐れを抱く人こそ、すでに仏に救われる縁に出会っている」と考えます。

また、供養してくれる家族がいなくても、阿弥陀仏はそのすべてを超えて、あなたの存在そのものを仏の国へと導いてくださる仏さまです。

信心が「100%ないと救われない」ということは一切ありません。疑いを抱いているあなたの心もまた、仏さまの救いの対象です。
むしろ、「本当に大丈夫なのか」と思いながらも、それでもどこかで「安らぎを願う心」こそが、仏教でいう“信”のはじまりなのです。

死後の世界が実際にあるかどうか、今の私たちに証明することはできません。

けれど私は、こう思うのです。

人がこの世で苦しみながらも、懸命に生きてきたその先が、ただ“無”であるはずはない。

それよりも、すべての苦しみや悩みを抱えたままの私たちが、最後にたどり着くのが「極楽浄土」という安らぎの世界であると信じる方が、人生はどれほど救われることでしょうか。

だから、どうか心配しすぎないでください。
あなたの人生も、あなたの死も、仏さまの光に照らされて、必ず守られています。

疑いがあっても、怖くても「どうか迷わず往かせてください」と手を合わせるだけで、
その願いはすでに仏の心に届いているのです。

どうか穏やかな気持ちで、今日という一日を大切にお過ごしください。

2025年5月17日 12:18
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おきもち

広島の山あいで、今日も「なんまんだぶつ」とつぶやいています。 浄土真宗本願寺派の僧侶、ケンコウと申します。 日々の中には、言葉にならない思いや、誰にも言えないもやもやがあるものです。 そんな時こそ、仏さまの教えが、ふっと心に灯りをともしてくれることがあります。 この「はすのは」では、あなたの声に耳を傾けながら、一緒に“いま”を見つめ直す時間をつくっていきたいと思っています。 堅苦しくなく、あたたかく、時にゆるく。 どうぞ、あなたのお話、聞かせてくださいね。

安心なさって下さい

拝読させて頂きました。
あなたは自分が死んでしまった後どうなってしまうのかと不安や恐れを抱いているのですね。以前のご質問からの続きでもありますのであなたがそう思ってしまうのもとてもわかるように感じます。お気持ち心よりお察しします。
そうですね死ぬのも怖いですし、その後どうなってしまうかと思うと余計に怖くなってしまいますよね。そう思い悩んでしまうのは決してあなただけではありません、多くの方が不安に思っているのです。

あなたがそう思うのであれば仏様や神様やご先祖様にどうかお救いなさって下さいと心からお願いなさって下さい。
「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)という言葉があります。南無は「お願いします」という意味です、阿弥陀とは「無限の光や無限の命」という意味の言葉です。ですから「南無阿弥陀仏」とは「無限の光・無限の命を持った仏様どうかお願いします、どうかお救い下さい」という意味の言葉です。
「南無阿弥陀仏」と心からおとなえし仏様お救い下さいと願う方を仏様はお救いになさって下さいます。仏さまのお浄土である極楽浄土にお導きなさって下さいます。先に往かれた親しい方やご先祖様が優しくお迎えなさって下さいます。そして再会を喜び合うことでしょう。
ですからどうかご安心なさって下さい。仏様や神様やご先祖様を信じて下さい。

あなたが与えられた命をしっかりと生き抜いていかれます様に、天寿全うなさった時には必ず仏様や神様がお導きなさって下さいます様に、親しい方やご先祖様があなたをあたたくお迎えなさり、仏様の極楽浄土に往生なさいます様に切に仏様や神様やご先祖様に祈っております。至心合掌 南無阿弥陀仏

2025年5月17日 13:19
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個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

順教寺さんのお坊さま、ありがとうございます。私は死に対する恐怖が人一倍強いような気がしていまして、ちょっと悩み過ぎかなと思っていたのですがお答えを読ませていただき、かなり気持ちが楽になりました。ありがとうございました。また機会がありましたらご回答お願いいたします

東さま、ご回答ありがとうございました。死もしくは死後というのは人間の永遠のテーマで科学的にも色々議論されていますが、科学的では気持ちか楽にはなりませんでした。だからというわけではないですがやはり信仰はこういう時に心を救って下さるとお答えを読んで確信いたしました。ありがとうございました。また機会がありましたらご回答お願いいたします

丹下さま、お答えありがとうございます。お答えを読んでその通りだと思いました。残念ながら現世では個人レベルでも、国レベルでも争い、戦争、犯罪が多発していますので悲しい事であります。まさにそれこそ人間が自分で地獄を作り出しているのですよね。人間の一生は長いようで実は短いのですから争わず仲良く出来ないものなのかと思っている次第です。これは私自身にも言えますね。悪事はおかさず、出来るだけ善行を行うように心がけていきます。ありがとうございました。また機会がありましたらご回答お願いいたします

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