死ぬのが怖いです回答受付中
死んで無になるのが怖いです。
輪廻転生があったとしてもそれは今の私ではないし、いつかこの宇宙は収縮して無くなると言われているので転生先も無くなります。
全部が無くなってしまって私のこの意識も無くなると思うとゾッとします。夜毎気が狂いそうです。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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無常観
澪標 様
あなたにブッダの言葉を贈ります。
「この世は無常の火で燃えているのに、
なぜ笑うことができるだろうか。
なぜ喜ぶことができるだろうか。
この世は暗闇に覆われているのに、
光を求めないのか。」(ダンマパダ146)
暗闇は癡(ち)、つまり真理を知らぬことであり、光とは真理のことを指している。ブッダが「すべてのものは変わりゆく」(無常)と説くのは、死を説明するための方法であった。誰も、永遠に生きることはできない。死や別れを苦しまないよう、無常を説いたのである。無常を理解し受け入れることができれば、死や別れを苦しまずにすむとブッダは教えている。
続いて
「この肉体は衰えた。
肉体は病の巣であり、
壊れやすく、腐った塊で、破れてしまう。
生の終わりは死である。」(ダンマバダ148)
「川の流れのように、
生命は過ぎ去り、戻らない。」(ウダーナヴァルガ1-32)
「我に関する邪見を捨て、
世界は空であると見なさい。
そうすれば、死の苦しみを乗り越えることができる。」(スッタニパータ1119)
空(くう)という考え方は難しいですが、ブッダは、「間違った見方を捨てなさい。」と説きます。「あなたがあると思っている(澪標様の場合は「私の意識」ということでしょうか)というものには、実体などないのだ。」と。
たとえば「誰かが死んだ」というのは、肉体がほろびたということにすぎない。それではその誰かの実体は何なのだろうか。肉体・若さ・心、そのどれかにその人そのものだと呼べるものがあるだろうか。若さや美しさは老いたときに失われる。肉体も傷病で失うことがある。心も変わりゆく。つまり、その人というのは、実体のない「空」なのだ。
さまざまに変わりゆく形のないものがほろびる(空と無常)と知って、悲しむことがあるだろうか。死を免れることは誰にもできないが、死の苦しみを乗り越えることはできる。
とブッダはといているのです。参考にしてください。一礼
不安は安心の元としてこそ役にたつ
こんばんは。再びのご相談、拝見いたしました。
あなたの問いは、7年前と同じくらい、あるいはそれ以上に切実な響きをもって迫ってきます。
「死後、無になるのが怖い」──この言葉の背景には、あなたが「今ここに確かに存在している」という感覚の深さがあるように思います。
怖いのは、「消えてしまうから」ではなく、「消えてしまっても誰も気づかないかもしれない」「何も残らないかもしれない」という感覚ではないでしょうか。
仏教では、確かに「輪廻」という言葉が語られます。けれど仏教の目的は「繰り返し生まれ変わる」ことを指摘することではなく、「その苦しみから解き放たれる」ことを願う教えです。
そしてその核心にあるのが「無我」、つまり「変わらぬ私などそもそも存在しない」という見方です。
あなたが恐れている「自分がいなくなる」ということ──それは、もともと「確固たる自分」があると思い込んでいたからこその恐れです。でも、その思い込みをほどいていくのが、仏教の目指すところです。
無になることが怖い。
けれど、今日もあなたは、無ではなく「ここにいた」。
昨日の夜も、きっと不安だったかもしれない。
でもその夜を越えて、今この問いを書き、今ここに生きている。
ですから私は、あなたにひとつ提案をしたいのです。毎晩、眠る前にほんのひとこと、「今日も私はここにいた」と、つぶやいてみてください。
この言葉は、誰に向けてでもかまいません。宇宙でも、過去の自分でも、あるいは静かに読んでいるこの私にでも構いません。
そして、朝が来たときには、こうも言ってみてください。
「前の晩、不安だったことはどうなったろう?」
前夜の不安がどうなったのか──それを確かめる習慣があるといいのです。問いのない人に、答えは現れません。しかし、答えを見ようとしない人は、いつまでも堂々巡りをするばかりです。
あなたが何度もこの問いを発することは、決して無意味ではありません。むしろ、その問いを手放さずにいるあなたは、誰よりも誠実にこの世界を見つめている人だと思います。
願わくは、この問いが、あなたにとって「逃れたいもの」ではなく、「生きていくための灯り」のようなものになりますように。
またいつでも、書いてみてくださいね。