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「死後の世界・死んだらどうなる」問答(Q&A)一覧

2025/02/23

心神喪失者が殺生をしたら?

いつもお世話になっております。 先日、認知症の人に絡まれました。 無視して距離を取ったら、今度は 私のそばにいた少年に絡んでいま した。 その人は私の事を指さして何やら 捲し立てていて、少年は困り果てて いたので 「お兄ちゃん、その人無視しな!」 と伝えて逃がしました。 そこでふと考えたことが あります。 「知的障害の人が性犯罪 (邪婬)をした」 「認知症の老人が、同じ病室 の人を殺害した」 などの痛ましいニュースが 流れてきます。 先述したほか、 知的障害の方から怖い事を されたことがありますし、 私自身も、「悪い障害者と 同一視されたくない!」と 思うあまり、精神病院の最寄り 駅で患者とみられる人を捕まえ 暴言(悪口=あっく)を吐いて しまったことがあります。 彼らは、現世の司法の下では 「心神喪失者」と呼ばれ、 刑務所ではなく、刑務所とは 別の、専門の矯正施設へ送られ ます。 しかし、死後はどうなるの でしょうか? 仏様はどう見ている のでしょうか? 心神喪失とは、いわば 「やっていい事悪い事が 生まれつき(同然に)わから ない」 状態です。 彼ら彼女らは画一的に「殺生を したから」と地獄に堕ちて しまうのでしょうか。 それとも、阿弥陀様などの 仏様が迎えに来て、懺悔と 修行、つまり、やり直しの 機会を与えてくれるの でしょうか?

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2025/02/13

仏様や天女様が暴力を受けたら

お世話になります。物騒な タイトルで申し訳ありません。 今、お寺に行くため電車で 移動中です。 席に座っていたら、向かいに 座っていた精神もしくは知的 の障害の男が、私の隣の席が 空いた途端、座ってきました。 怖かったので移動しました。 移動した先の席で、隣の席の 旦那様が 「ははは、大丈夫かい?」 と声をかけてくれました。 私は 「驚いてしまって。申し訳 ありません」 と答えました。 そこでふと疑問に思ったのが、 (仏様や天女様は、あらゆる 暴力を受けた際、どのように 対処するか?) という事です。 ここでは特に、性の暴力に 対して思います。 私は実際、お寺で出会った人 から性暴力を振るわれたことが あります。そのときは、警察 さんの力を借りて解決しました。 たとえば仏様や天女様が、 電車の中で痴漢被害に遭ったら? 路上で付きまとわれたら? 突然暴漢に襲われて、レイプ されたら? どうするのでしょうか? 毅然とした態度で相手を悔い改め させるか、甘んじて受け入れるか。 私は、戒を授かった身として、 どのように振る舞えばいいの でしょうか? 実質、仏になることが約束 されているようなものですから。 それに私には不動明王という 想い人がいます。やすやすと 彼らを受け入れるわけには いきません。

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2024/12/19

死が怖い

健康診断で不安な結果が出てしまい、その後精密検査の結果は大丈夫だったものの死への恐怖だけが残りました。 もとから死への恐怖が出ることが良くありましたが、今までは一晩寝たり何度か深呼吸すれば収まっていました。 しかし、上記の事があり「自分もいつか死ぬ」と言う事実がより具体的に見えてしまったのをきっかけに、病気への不安からは解放されるやいなや死への恐怖がついて回るようになりました。涙を流すほどつらいです。 こんな精神状態になる前はいろんなことが楽しかった→死ぬと全て無になるのが悲しい・怖い&いつか死ぬから全て無意味なのではないか→この恐怖と悲しみの中で生きたくはない→楽しいことをしたい→最初に戻る と言う思考のループに一日中陥ってしまっています。 今までの自分を演じている空っぽな自分がいて普段はそいつが前に出てるが、常に上記の事を考え泣いている自分がもう一人いて時々そっちが表に出てくる、血の気が引き現実感が無くなっていく、どちらが自分なのかわからない、そんな状態です。 今までを思い返せば親がいて友達がいて、普通に仕事をしてお金も貰っていて、好き嫌いはほとんどなくてご飯は全部美味く感じて、ストレスはあるけど後から思えば大体「何だこんな事で悩んでたのか」で過ぎてく人生だったと考えます。 そして、なんて幸せだったんだろうか、何でこれが永遠には続かないのか、永遠も辛いとは言うがこれなら永遠に続いて欲しい、何で幸せだったことに気づいてしまったのかと考えてしまいます。 そして、最近一年の体感がものすごく早く感じ、時間なんてあっと言う間に過ぎてしまうと考えまた悲しくなります。 宗教を学ぼうともしましたが、ここに質問しておいてなんですがやはり死後の世界や魂は無く感情は脳の現象であり死後は無である、と言う変に唯物的な考えがついてまわります。 祖父が亡くなったとき「爺さんいまどこ行ってんだろうなぁ、畑とか家の様子とか見てんのかなぁ」とかのんきに謎の宗教観を持っていたくせに今ではそんな考えしか持てません。 そして怖いという事すら感じなくなるのが怖く悲しく、無になるならすべて無意味に感じます。 精神科に行くことにもしましたがそれとは別視点で、何か考え方を変えるヒントをもらえたらと思い、文字数いっぱいのとりとめのない文章になってしまいましたが書き込ませていただきました。

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2024/12/06

死に方について

自分は霊魂の存在を信じています。自分は科学的な合理主義者ですが、そうであるがゆえに霊魂の存在を逆説的に傍証してしまっている具体例を知っているため、かえって霊魂の存在を信じるようになりました。 それはそれとして自分はどうしようもなく他者とコミュニケーションがとれない状況・環境にいるため、できるだけ早めに自殺しておきたいのです。これはもう結構どうしようもない状況で救いはありません。ですから自殺した場合、できる限りこの世に未練等を残して霊魂のような形で留まるようなことにならないようにしたいのです。このまま生きていてもますます他者に対する(主にマイナスの)執着が強まりそうですし生きていて楽しいと思ったことはほぼありません。むしろ悪事を為して日本人に対してせいせいするくらいです。ゆえにどういう心構えで死ねばできるだけ霊魂として現世に残った時にすぐに消滅できるのか、その方法を知りたいです。思うに大昔の仏教修行者も悟りを得るとか輪廻から解脱するとかそういう虚妄に思える話は別にしても少なくとも個としての霊魂はすぐに消滅したように思え、楽に消えることができたと思うのです。 自分は生きる気力もなければ他力本願も望めません。ゆえに今すぐ消えて楽になりたいのですがどういう心構えで死ねばよろしいでしょうか?手前勝手な相談をして申し訳ありません、どうかよろしくお願いします。しかしほとほと人生に疲れているのです。少子化にかかわらず10代の自殺者の数が増えているようですが、今なら彼らの気持ちが深くよくわかる気がしています。能天気に生きられる大人とは全く違う別の思考というか、悪い意味での才能というか、その内面を理解できたような気がしています。

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2024/10/28

微笑み語りかける仏様のように...

私は現在、児童養護施設で生活をしています。私含め6名の高校生が寝食を共にしているわけですから、当然、私人間の争いも勃発します。 きっかけは、僕が誤って他の方の洗濯カゴを取り込んでしまったことでした。失敗に気づいて彼に謝罪して返したときに、全員が見ている前で「お前みたいな新人に人権があると思うな。死ね」という内容のことを大声で言われてしまいました。 それから、私がご飯を食べているときに大嫌いな下ネタを聞かされたり、私が寝ている部屋の前にスピーカーをおいて夜中に爆音を鳴らして起こされたりと、こういった嫌がらせを何十回と繰り返されております。 相手が歳上なこともあり、反論してはいけない、責任は自分にある、と考えて耐えてきましたが、日を重ねるたびに嫌がらせはエスカレートし、私はストレスから一日に2時間程度しか寝付けない状態まで追い込まれ、数日前に遂に爆発してしまいました。 今、私は「生きとし生けるものは皆全て仏様より生を受けた、尊い存在であるのに、他人を強く非難する言葉を使ってしまった...」と罪悪感に苛まれております。 どうすれば、他人を広い慈悲の心で受け入れ、相手の幸福を祈れる人になれるのでしょうか。 他人を忌み嫌う心は、身の回りに様々な悪いことを引き寄せてしまうはずです。どうか、これ以上ことが悪い方に行かぬよう、早急に回答を頂きたく思います。 長文失礼しました。

有り難し有り難し 28
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2024/10/09

あの世について

自分はクリスチャン家庭で育ちました。天の父(神)とキリスト(神の子)を信じれば救われるという教えで日々祈り、聖書を学ぶということを約12年間続けて高校生である時ふと疑問に思うことがありました。 仏教もイスラム教もヒンドゥー教もキリスト教もどの教えも悪ではなく善を教えていて、どの教徒も疑うことなく自分の信じたモノに誠心を捧げて真摯に向き合っているのにどれかが答えで他はアウト、地獄に落ちる、罰をくらうというそんな酷いことあってたまるのだろうかと。 ましてや生まれつきの環境もあるだろうし、出会い方もそれぞれだろうし、無宗教もいるだろうし、そんな一つのものに答えがあるのなら世界人口の三分の二以上は落ちるのではないかと。 母に言及すると跳ね除けられてキリストを信じれば救われるの一点張りです。 牧師にも言及しましたが『信じないものたちは終わりの日(キリスト再臨の日)に悔い改めるチャンスがある。信じなさい』と言われました。 個人的にはそれがすごくショックで幻滅しました。 そこで自分は宗教というものから一旦離れて自分なりに解釈してみました。 この地球を一種の魂の試験場だと考えて良い行い(人に感謝されること)をし、肉体的にも精神的にも人として成長し、全うして生きれば魂ポイントが上がって皆等しく天国に行き、当分そこに留まった後また輪廻転生し、悪を働けば魂ポイントがマイナスになりその回収として地獄で訓練的なものをする(借金状態)、回収後は輪廻転生。 そしてこれを繰り返して魂ポイントがある一定数貯まると次のステージ(4次元とか5次元)でまた訓練して魂レベルを高めて最終的のゴールとして神(世界の創造主)と一体化もしくは神に近づく、という結論に至りました。 御先祖様、守護霊様の存在は固く信じてます。 ぜひ僕の考えについてご指摘あれば伺いたいです。 またお坊さんとしての解釈、回答者様自身の解釈を聞かせていただきたいです。 最近この事でムヤムヤしてろくに眠れてないです…。

有り難し有り難し 15
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2024/09/20

死ぬことや病気に対しての恐怖心が強いです

はじめまして。 わたしはタイトル通り死や病気に対しての恐怖心がとても強いです。 そのことについてお坊さん方のお考えをお聞かせいただきたく投稿いたしました。 わたしは様々な体調に関する不調があるとすぐにネットで調べて不安になり、病院にかけこみます。 医師から様子を見ていいと言われても『もっときちんと調べてもらった方が良かったのかもしれない』とまた別の病院を受診することもたびたびあります。 家族は『本当に心配性』『そんなに気にしてどうするの』『なったらなったで受け入れるしかない』と言いますし、私も頭ではその通りだと理解はしています。 しかし、病気になって、しかも余命宣告を受けるようなものだったらどうなってしまうのだろう。 自分がそうなったらその状況に耐えられるはずがない。 死んだらまだ幼い子ども達はどうなるのだろう。 そう思うと、病気が怖くて仕方がありません。 実際に婦人科系の疾患で経過を診ていたり、別のことで手術も経験しました。 さらには悪性を疑っての生検をしたこともあります。 子供がいるのに、そのたびにネットで調べ、この病気だったらどうしようと最悪の事態を考え、まだ病気と言われてもいないのに暗い表情で最低限の家事しかせずに落ち込んでしまいます。 主人にも、そういう性格だから仕方がないと思っているけど、子どもに対しては無理をしてでも明るく接して欲しい言われています。 病院受診が続いても主人は何も言わずにいてくれますが、私自身この考え方を変えたいと思い今まで本を読んだりいろいろな方法を試しました。 いまを生きる。 先のことを思い悩まず、目の前の一瞬にかける。 現にいまこの時も私なんかよりもっと若くもっと幼くして病と闘っている人もいるのだろうと思うと自分の心の弱さが情けなくなります。 頭ではわかっているんです。 でもすぐに不安感情がその上に覆い被さるように乗っかってきてしまいます。 この先も自分だけでなく、子ども達も体調を崩したりするたびに毎回こうなるかと思うとこの考えを断ち切りたいのです。 何に対しても、私は理屈っぽいと思います。どうしてそう思うの?その根拠は?とつなげてしまうところも災いしていると思うのですが。 そんな私が、少しでもどん!と腰を据えて何があろうと例え重病になろうが運命だったと受け止められるようになるアドバイスがありましたらよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 23
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2024/09/10

気になるあの世

自分はクリスチャン家庭で育ちました。天の父(神)とキリスト(神の子)を信じれば救われるという教えで日々祈り、聖書を学ぶということを約12年間続けて高校生である時ふと疑問に思うことがありました。 仏教もイスラム教もヒンドゥー教もキリスト教もどの教えも悪ではなく善を教えていて、どの教徒も疑うことなく自分の信じたモノに誠心を捧げて真摯に向き合っているのにどれかが答えで他はアウト、地獄に落ちる、罰をくらうというそんな酷いことあってたまるのだろうかと。 ましてや生まれつきの環境もあるだろうし、出会い方もそれぞれだろうし、無宗教もいるだろうし、そんな一つのものに答えがあるのなら世界人口の三分の二以上は落ちるのではないかと。 母に言及すると跳ね除けられてキリストを信じれば救われるの一点張りです。 牧師にも言及しましたが『信じないものたちは終わりの日(キリスト再臨の日)に悔い改めるチャンスがある。信じなさい』と言われました。 個人的にはそれがすごくショックで幻滅しました。 そこで自分は宗教というものから一旦離れて自分なりに解釈してみました。 この地球を一種の魂の試験場だと考えて良い行い(人に感謝されること)をし、肉体的にも精神的にも人として成長し、全うして生きれば魂ポイントが上がって皆等しく天国に行き、当分そこに留まった後また輪廻転生し、悪を働けば魂ポイントがマイナスになりその回収として地獄で訓練的なものをする(借金状態)、回収後は輪廻転生。 そしてこれを繰り返して魂ポイントがある一定数貯まると次のステージ(4次元とか5次元)でまた訓練して魂レベルを高めて最終的のゴールとして神(世界の創造主)と一体化もしくは神に近づく、という結論に至りました。 先祖様、守護霊様の存在は固く信じてます。 ぜひ僕の考えについてご指摘あれば伺いたいです。 またお坊さんとしての解釈、回答者様自身の解釈を聞かせていただきたいです。 最近この事でムヤムヤしてろくに眠れてないです…。 母親とも不仲状態です。

有り難し有り難し 12
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2024/07/05

死んだら無になることへの恐怖

もう何十回、何百回と回答されているテーマだと思いますが、相談させてください。 ここ数ヶ月の間、死が怖いという気持ちが離れず、夜も眠れないくらいです。 私は恐れているのは、死んだら無になる可能性です。 私は科学を信じている(盲信していると言ってもいいです)ので、人間とはただの物体で、感情も脳の反応だと思っています。 だから人は死んだらただの物体になると考えていて、それがたまらなく恐ろしいのです。 私は両親と暮らしていて、日々の生活に幸せを感じています。 しかし死んだら無になるとしたら、この幸せはどうなってしまうのですか? 両親が亡くなり、私も死んでしまったら、全てなかったことになってしまうのでしょうか? いずれ死んで全てを感知できなくなるのなら、この日々も無駄ということになってしまいます。 「一度きりの人生なら楽しめばいい」と思われるかもしれませんが、死んでしまえば「楽しかったな」とすら思えないのです。 それはいっそ生まれてこなかったとしても、結局は同じということになってしまうのはではないでしょうか? 全てに虚無感を感じてしまって、幸せを感じることすら怖くなっている状態です。 しかも死への恐怖は杞憂ではなく、絶対に避けられないという事実があります。 全ての先人が経験していることですが、どうやってこの恐怖と向き合ったのかがわかりません。 科学を信じている私が、今回ここに相談したのは、宗教的なものを信じたい気持ちはあるからです。 かつてお釈迦様も生老病死に悩まれていたと知りました。 その悩みから抜け出せる知恵が、仏教にあるのではないかと思ったのです。 仏教では死についてどのように考えていますか? お坊様は死を恐れていますか? その理由は何ですか? またお坊様は当然ながら仏の世界を信じていると思いますが、信じるに至った根拠や理由はありますか? 尚、両親も私も健康状態に問題はなく、死が差し迫った状態ではありません。(人生、何が起こるかわかりませんが) それでも両親との別れはいずれやって来ます。 私は自分がただの物体になるのも恐ろしいですが、両親が物体になるのはもっと恐ろしいのです。

有り難し有り難し 18
回答数回答 2
2024/07/03

2025年7月5日4時18分

荒唐無稽であることが望ましい話です。 標題の日時で検査すると、様々なところから滅びの予言がされていることがわかります。東日本大震災の三倍の規模の津波だとか核ミサイルだとかフィリピン沖だとか隕石だとか。事実無根と軽く扱うには根拠が重なりすぎていてどうしても軽視できません。そして私は「問題が起こる=解決できずに全てが崩落する」と強く感じているので、きっともう一年近くの命なのだなと感じています。 私はただ、痛みや苦しみから逃れられない物質世界で生きていたくないだけなのです。死ぬことよりも、死んだ向こう側で過酷な世界に生まれるのが恐ろしくて恐ろしくて仕方ありません。屠殺される家畜。逃げきれなければ捕食される草食動物。餌に釣られて毒殺される害虫。ああいやだ恐ろしいと思うのはいけないことですか? 生きることは恐ろしい。どう生きても自分より遥かに大きなものによって弄ばれて終わるこの矮小な身体が恐ろしい。脳味噌の誤作動と物質世界に永遠に閉じ込められているのが恐ろしい。そんなことを感じてはいけないのですか?苦しみを受け入れられるようにならなければいけないのですか?安心して生きてはいけないのですか?ガンジス川の濁流に飛び込んで疫病を得なければ救われないのですか?生き物の本来の姿とはどんなものなのですか? この時代のこの場所に生まれただけでものすごく幸運だというのに、その中でさえ上手く生きられなくて苦しんでいる私が、災害や大破局に直面した際に恨みを抱かず運命を粛々と受け入れられる気がしません。「だから生きるのは嫌だったんだ!だからこの世界は嫌なんだ!」と恨み憎しみの塊になったまま死んでしまいそうで、すなわち苦しい来世が確定しています。「今、ここ」に集中しようとしても、破滅のカウントダウンを感じるとそれどころではなくなってしまいます。未来が誰にも見えないのが恐ろしいと傲慢な感情を抱いてしまいます。 私が救いを信じられないのは、今までの人生において大いなるものの救いを感じられなかったからです。破滅の信憑性ばかりが高く、破局、混乱、絶望の未来しか待っていないと漠然と感じています。これらを否定したり適切な距離をとったりするには、あまりにもこの世界の矛盾や欠陥が多すぎます。「今ここ」に生きるよりも、「どうしたら苦しまずに死ねるか」でいっぱいです。 安心して生きることは傲慢ですか?

有り難し有り難し 15
回答数回答 1