どんなに頑張って生きようと思っても人生は苦しいまま
こういう悩みの質問をすると、道はあるとか、足元を見てないだけとか、もっと考えれば良いとか。そういう事を言われる方が腐るほどいますがその程度のことで解決できるような悩みやトラブルしか抱えてないだけだと思いました。
私がいくら仏教を知り、色んな物事を調べて、どうにかしようと毎日365日、私の運命にあがなおうとしましたが人生変わりません。
私の過去の選択ミスが影響して今私がいくら頑張ろうがどうにもなりません。
1番大事なことは、選択だと思います。
どれだけ身体を気を使っても、交通事故に遭い半身不随になれば一生後悔します。
そして後から気を使っても、後から考えを取り入れて勉強しても半身不随前の生活の方が苦しみは少ないです。
全ては選択です。
私も半身不随のように選択ミスから死ぬほど苦しんでいます。
そして現在進行系で苦しみ、これからずーっと苦しむ事が容易に想像できます。
どんなに考えて、どんなに悟ろうと選択ミスをする前の人生、半身不随になる前の人生のほうが幸福だろうと思う。
だからもはや術はないのではないか、もう今苦悩を抱えている人は一生苦しむしかないのではないか。
半身不随になった後に仏教をいくらしても何も変わりません半身不随になるような事故に合わず仏教を勉強しない人生のほうがいいと思います。
どうすればいいの?
死ぬしかないんじゃねえか。
突発的に勢いで死ぬしかないんじゃないか。
だっていくら何をしても解決方法ないもん。
ただただ運が悪かった、どうしようもない。
半身不随になった人に生きてれば幸福とか言える?
※半身不随は比喩。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人生に“もしも”がないことを改めて認識
いくらもがいても苦しみから逃れることができないお気持ちも人間なら持つものです。
仏教を学んでおられるなら、尚のこと「一切皆苦(一切行苦)」ということは存じておられると思います。
また、四苦八苦も存じていることと思います。その四苦八苦の中のどれかに値をされていることでしょう。
求不得苦なる求めるものがいつまでも手に入らないと思うことがまた苦しみを生み出します。
薬師如来をご存知と思います。しかし、薬師如来は直接ガン患者のガンを治すことはできません。しかし、如来です。如来ならどうにかできるのではないか?ではなく、人は皆「病気を抱えた生き物です」その病気とは?
それは「煩悩」です。
煩悩の働かせ方で、欲の持ち方は変化していきます。また、煩悩を消すことはできないのです。治療できないということです。と、いうことは「一病息災」ということです。
一つの悩まされていることに恨みをもつのではなく、戦うのではなく、上手く付き合っていきながら、その煩悩がどういう風にすれば、心身が楽に生かせていけるのかを探求することです。
勝とうと思っても勝てないものもあります。苦しみから抜けるといった思考ではなく、苦しみがあるからこの苦しみを活かして人を救うことができないのか?ひょっとすると、同じ苦しみをもっている人々を救える立場になることもありえます。
・弘法大師(空海)
「邪見を発起すべからず、善根を断ずるがゆえに」
自身の「魔」に負けると大切なものを失ってしまうとお大師さんはおっしゃってます。
まだまだ私も修行者の一人です。できないことも多いです。苦しみも多いです。しかし、信心をもって仏の教えを信じる人生で歩んでいきますよ。
合掌
ハッピーエンドなら良い
結果的にハッピーエンドの人生なら、良いのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えていれば、人生のハッピーエンドが決定します。
ハッピーエンドを信じているときの喜びが、人の強さにもなります。
不平不満や怒りは、ストレスにつながります。
「念仏していれば最後はハッピーエンドだ」
「念仏していればこの人生は合格人生だ」
という明るさが、幸せを感じる力になります。
法然上人は、「念仏できるように生きなさい」と言われました。
ということは、「念仏していれば、念仏できれば合格人生」と思ってもよいのではないでしょうか。
月は自分では光を出せませんが、太陽の光を反射して夜空に輝きます。
私達も、仏様や仏教という太陽に照らされて、輝く方法があります。
南無阿弥陀仏と念仏していれば、来世は極楽浄土の菩薩様の仲間に入れます。
今はまだ、闇夜。
極楽浄土から照らしてもらって輝く。
そして極楽浄土に往生したら、そのときは自ら光を放つ悟りの力を得られるのです。