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本音

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有り難し有り難し 26

私は中学生の頃から親の看病や介護、死などを常に経験してきました。
きょうだいとしては6歳はなれた兄がいます。普段は一緒には暮らしていません。私が高校生のとき父方の祖母が亡くなり、その時も母は長男の嫁なので私たち子どもも、それなりに自分の事は自分でしながら父母のサポートをしなきゃ、と思っていましたが兄はゲーム。注意してもゲーム。結局、真っ暗な中、物置から自転車を出し夕飯を高校生のお小遣いからひとり買いに行ったのを覚えています。
今年のお正月は母も私も風邪をひいて体がしんどいですが、ひとつひとつ、ご飯を食べてください、みたいに何々をしてください、と言わないと兄は何もできません。兄は急に、「う〜ぅ、ニャンニャン」とか「ちゅっ ちゅっ ちゅ〜」とかアニメチックな事を言い出したかと思うと、ガソリンスタンドとかに行くと「皆殺しだ〜。死ね〜」とか言いだします。このお正月も朝から晩までゲーム。
母も年をとり、今後、先、看病や介護になった時、兄には頼れません。行政は「あなたの家は貧乏だから仕方がない」そう言われます。ひとりで考え、ひとりで行動しなければいけません。いつかのご回答の中でケアマネに相談とありましたが、私の住んでいる地域では、ケアマネは、とある病院の独占で金次第です。
私の仕事も今はエンジニア派遣。正社員を探していますが、この歳ではなかなかと。それに時給や契約社員です。それに、やはりエンジニアとして働きたい。
だけど、私のレベルでは…というところと、勉強していく気力が少しずつ低下していってる現実。
食べてくために頑張らなきゃ、そう思いながらも自分の老いに勝てない現実。

自分の仕事、母のこと、兄のこと、荷が重く押しつぶされそうです。
母に何かあったとき、ひとりで考えひとりで行動せざるを得ません。兄の面倒をみながら。
兄は「母の遺骨も捨てる。そしたら何にもしなくて済む〜。」そう言います。
涙が出ます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

兄との程よい距離感を

こういっちゃぁ厳しいようですが、人生自分の呼吸は自分でするしかないのです。
一日24時間が与えられた時間をゲームばかりに費やしてきた人は「そうなる」のです。
「そうなる」ということだけを冷静に見つめることです。良い悪いではありません。
「ゲームばかりで自分のことを自分でやらなかった」というだけで、今後ゲームができなくなれば男性は自分で何とかしようと思うようになります。世のヒモという男性たちが女性に寄生して女性に働かせて、自分はさほど何もしない人種があるように、今お兄さんはサポーターがいるから、サポーターにたかっていけば食っていけるという冷静な判断力を駆使してグダグダなだけです。本人が困るまで放っておけばよいのです。
下手をすると兄弟を理由にたかられますから、上手な距離感を保ちましょう。
放っておくことは、経済制裁でも見捨てることでもありません。
本人の為の「自分のやる気スイッチ発見サポート」ですから、案ずるまでもありません。
冷たいようですが、本人が本当に困らない限り、自分の甘い人生を変えようとしないのです。
ゲームは指先でやるものです。最小限の力で楽して食っていこうという能力はちゃんと持っているのですから、お兄さんはお兄さんの人生として自分の人生を生きるよりほかはないので、あなたがあまりにも過剰に意識を注ぐ必要はありません。
心配であれば、純粋に兄妹として今後のありかたについてコミュニケーションをするべきです。あなたはあなたのことをやればよいのです。
問題は沢山あるのではありません。あなたが問題にすること。問題視するココロ、問題化する心をおさめるという事に気持ちを注ぐしかありません。
外を変える思考を改めるべきです。
自身の中の外のことをあれこれ問題にする自分心をこそ、見つめて改めればよいのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元さん
お返事、有難うございます。
兄は私に寄生すれば良いとはっきり言ってくるので、どうしようもありません。
結局、私はひとりです。

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