自分の行動と罪
ハンスです。前回の質問では大変お世話になりました。ありがとうございました。
今まで生きていて疑問に思ったことがあるので質問させてください。
私はどうやら、自分を責めすぎる癖があるようなのです。私が夜も眠れないほどの大問題だと思っていることでも、他人に相談すると「そんなの全然大したことじゃない、気にしないでいいよ」と言われることが多いです。
肩の力が入りすぎており、近寄りがたい雰囲気が出ていると言われたこともあります。
しかし、そうかと言って肩の力を抜いて行動することに、私は大変な不安と躊躇を覚えます。
私がなんとも思っていないことで他人を深く傷つけてしまった時、それに私が気づかなかった時、私はどうすればいいのでしょうか?
それが分からず、肩の力を抜くことができず、自分の言動と他人の腹の中に怯え続ける日々を送っています。
もっと楽に生きたいです。しかし、他人を傷つけ、恨まれる恐怖がそれを邪魔します。
この気持ちにうまく折り合いをつけるにはどうしたらいいのでしょうか。何かお知恵をお貸しくださいませ。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたがいくら努力しても、他人はあなたの期待通りにはならない
拝読いたしました。
ハンスさんは、一言でいえば、人間関係にお悩みのご様子ですね。
特に相手が自分をどう受け取っているのかが気になってしょうがない。
これに関して、軽く回答しているように感じられるかもしれませんが・・
人は、そんなに他人の事を気にしていません。
現に、あなたが夜も眠れないほどの大問題でも、他人からすれば大したことない、となるのです。
皆さん、自分が生きることに必死なのですね。
あなたも、私も含め。
万が一、あなたがうっかり、相手を傷つけたとしても、それはそれでご縁なのかも知れません。
それが、慎重に関わるよう気配りした上での結果なのですから。
仏教には8万4千の教えがあると言われます。
お釈迦様は、人のタイプや悩みにより、教え方をわかりやすくされました。
すると、8万4千通りにもなってしまったのです。
お釈迦様でもそのような状態なのですから、我々凡人には到底及びません。
要するに、100人いれば、100通りの接し方をしなければなりません。
そう考えれば、コミュニケーションのミスが発生しても、何ら不思議ではありません。
自分がいくら頑張っても、他人の腹の中を推し量ることはできないのです。
我々は、そのような中で生きていることを知って下さい。
ですので、自由に振舞って生きていくことが幸せなのではないでしょうか。
100できなくても、50出来れば随分と楽になれます。
他人を傷つけたくない、また恨まれたくない。
そうお考えになられるのは、全くもって自然な感情です。
そのお気持ちは素敵なことですが、だからこそ自然な振る舞いも必要ではないかと思います。
なぜなら、他人は自分の都合のいいようにコントロールできないのですから。
質問者からのお礼
「他人は自分とは違う存在」何度も言われる基本ですね。自分が生きる限り、誰かを傷つけることは避けては通れない。ならば、自分の信じる道を通して自分が幸せになることで、他人の荷物を持つことができる心を持とうと思います。大変参考になりました。ありがとうございました。