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依存

回答数回答 1
有り難し有り難し 26

人に依存するのを辞めたいです。
自分は友達とかあまり知らない人でも
自分が期待してることをされないとあまりいい気持ちになりません。その後ずっと不安になって一人反省会みたいなことをしてしまいます。そして裏切られたみたいな気持ちになります。
依存的なのを辞めたいのですが自然にやってしまうので悩んでいます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

依存か共存か「只管(ただ)BEING」しているだけか。

先ほど子供のお迎えで幼稚園に行って、タイ人の女の子のポティちゃんと縄跳び遊びを一緒にしていました。
楽しかったです。
人は誰とでも相和せるようにできています。
タイ人の母さんは日本語があまりできません。
言葉は知らずともそれなりにお話ししました。
コミュニケーションは言葉をさほど知らなくともできるのです。
人と人とは一緒にいても別々でもどっちでもお互いがただ存在しているだけ。
依存という言葉を忘れましょう。
人と一緒に生活することそのものは依存ではありません。
ただの共存ではないでしょうか。
共存と依存という言葉があるだけだと知りましょう。
本質は人がそこに居るだけ。
そこでお互いになにかするというだけ。
もし、言葉によって「人と一緒にいること自体が依存だと思ってしまって矛盾を感じているのなら」ご安心ください。それは違います。
人は人とむしろ共存するために生きているのです。
👿俺だけテキトーでいいやという人はみんなにメーワクかけてますでしょ。
共存は大事なのですし、孤立して山小屋暮らし・無人島暮らしをする必要もありません。
親友でも親子でも恋人でも夫婦でも一日中べったりトイレまで一緒だと気が狂います。
ご安心ください。
人は一人で安心・満足・心地よいようにできているのです。
だからと言って孤独もさびしいでしょう。良寛さんも「世の中に交らぬとにはあらねども一人遊びぞわれはまされり」と言っています。
それが出家の態度です。
だから、世の中に混じらぬとにはあらねども(世の中にまったく交わらないというワケではない)ということです。
依存も共存という言葉も忘れてみましょう。
たとえば、みんなで鬼ごっこやドッジボールやサッカーやバスケをしていた時を思い出してみましょう。
人と生活しているときに依存も共存もありません。
ただ、そこに居るだけ。
人とかかわって楽しいということがあるだけ。
うまくいかなければ悲しい・切ないということがあるだけ。
誰と居ても全部「自身の活動」なのです。
自転車に乗っていて、大空の下(法の海)で風を切りながら和している時に孤独なんてありません。そこで風と出会って、景色と出会って、そのことになりきっているはずです。
依存ではありません。共存です。依存でも共存でもありません。
そのことに和しているのです。人は元々何とでも和(処)せるようにできているのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

質問回答ありがとうございます。たしかに依存という言葉にとらわれすぎてたのかもしれません。
他にも言葉にとらわれてることがあると思うので気をつけたいと思います。

ありがとうございます。

私はずっと先輩に依存しているんではないかと不安になっていました。
またこの回答に救われました。
ありがとうございます。

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