依存
人に依存するのを辞めたいです。
自分は友達とかあまり知らない人でも
自分が期待してることをされないとあまりいい気持ちになりません。その後ずっと不安になって一人反省会みたいなことをしてしまいます。そして裏切られたみたいな気持ちになります。
依存的なのを辞めたいのですが自然にやってしまうので悩んでいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
依存か共存か「只管(ただ)BEING」しているだけか。
先ほど子供のお迎えで幼稚園に行って、タイ人の女の子のポティちゃんと縄跳び遊びを一緒にしていました。
楽しかったです。
人は誰とでも相和せるようにできています。
タイ人の母さんは日本語があまりできません。
言葉は知らずともそれなりにお話ししました。
コミュニケーションは言葉をさほど知らなくともできるのです。
人と人とは一緒にいても別々でもどっちでもお互いがただ存在しているだけ。
依存という言葉を忘れましょう。
人と一緒に生活することそのものは依存ではありません。
ただの共存ではないでしょうか。
共存と依存という言葉があるだけだと知りましょう。
本質は人がそこに居るだけ。
そこでお互いになにかするというだけ。
もし、言葉によって「人と一緒にいること自体が依存だと思ってしまって矛盾を感じているのなら」ご安心ください。それは違います。
人は人とむしろ共存するために生きているのです。
👿俺だけテキトーでいいやという人はみんなにメーワクかけてますでしょ。
共存は大事なのですし、孤立して山小屋暮らし・無人島暮らしをする必要もありません。
親友でも親子でも恋人でも夫婦でも一日中べったりトイレまで一緒だと気が狂います。
ご安心ください。
人は一人で安心・満足・心地よいようにできているのです。
だからと言って孤独もさびしいでしょう。良寛さんも「世の中に交らぬとにはあらねども一人遊びぞわれはまされり」と言っています。
それが出家の態度です。
だから、世の中に混じらぬとにはあらねども(世の中にまったく交わらないというワケではない)ということです。
依存も共存という言葉も忘れてみましょう。
たとえば、みんなで鬼ごっこやドッジボールやサッカーやバスケをしていた時を思い出してみましょう。
人と生活しているときに依存も共存もありません。
ただ、そこに居るだけ。
人とかかわって楽しいということがあるだけ。
うまくいかなければ悲しい・切ないということがあるだけ。
誰と居ても全部「自身の活動」なのです。
自転車に乗っていて、大空の下(法の海)で風を切りながら和している時に孤独なんてありません。そこで風と出会って、景色と出会って、そのことになりきっているはずです。
依存ではありません。共存です。依存でも共存でもありません。
そのことに和しているのです。人は元々何とでも和(処)せるようにできているのです。
質問者からのお礼
質問回答ありがとうございます。たしかに依存という言葉にとらわれすぎてたのかもしれません。
他にも言葉にとらわれてることがあると思うので気をつけたいと思います。
ありがとうございます。
私はずっと先輩に依存しているんではないかと不安になっていました。
またこの回答に救われました。
ありがとうございます。