真っ暗闇の中、小さくうずくまる、それでも…
「私には信仰の自由がありません。」
そう書いていて何ですが、親の言いなりに生きてきましたけど、学生最後、型破りな生き方をして大学を卒業しました。
そういう卒業の仕方がアリなのか?ナシなのか?
多分、私と同じことをしてもナシだったり、卒業を認めてくれないかも知れません…破天荒過ぎて…。
でも、先生の理解をこえた生き方をすると…ナシがアリに変わることがあるのです…。
私は、とても熱心に勉学に励み、文句言う先生がいないぐらいちゃんと成績も残して、講義だって休んだことはありませんし、居眠りもしたことがありません。
勉学だけでなく、先生との信頼関係を得る為に、積極的に研究室に足を運んで、私なりに努力して努力して努力して…
卒論を書かずに卒業しました。
その代わり、大学以外の場所、社会人の中に混じって様々な活動をし、最後のまとめの卒業発表の場でないところ、教会のミサの場、人前で、自分がどんな生き方、学生生活をしてきたかをお話しする、それを私の着地点とすることで無事卒業を認めてもらいました。
信仰の自由もない、信じる余地もない、もちろんキリスト教徒でもない…
たまたまミサだっただけで、もしかしたらお寺さんだったかも知れません。
たまたまです。
京都市内に下宿していたので、お寺さんだってたくさんありましたし…
だから、本当にたまたま教会で時間をお借りしただけでして…
今?今は…
ちょっと仏教を…親に秘密なので…無宗教っぽいですが…
お寺さんも仏教も大好きです。
こんなこと言ったら、殺されそうです。
体を包丁で刺されるとかでなく、心を包丁で刺されるような気がします。
でも、死ぬのは怖くない。いつ死んでもいいと思っています。
後悔はありません。
今、南海トラフ地震が起きて、家が倒壊して潰されてもいい。
今、外に出たら車に跳ねられてしまった、でもいいのです。
親不孝なのは申し訳ないと思いますが、そういう覚悟で、今を偶然生きています。
皆様、どうもありがとう。
何故か生きていますよ。
hasunohaの相談を読ませていただいたりすると、人はいろんな苦しみや悲しみを感じて生きているのだなぁ…と思います。
私はいろいろ不自由ですが自由なので、生きている間は、白い色鉛筆で絵を描いていきます。
間違っていた時には、厳しく喝!を入れて下さい。
・仕事は資格より素質 ・鬱になろうが5才児ぐらい好奇心旺盛 ・順風満帆な人生より七転び八起きぐらいの人生がちょうどいい
職場で久しぶりに再会した人に「やっぱり~!」と言われることが苦痛
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
意味不明
”間違っていた時には、厳しく喝!を入れて下さい”
そうですか。では遠慮なく。
結局、何が言いたいのかサッパリわかりませんが。
そういえば、同門の大先輩が面白い事を仰っていたな。
「答えがわからないのではない。問いがハッキリしていないのです。」
だって。何か参考になりますか?
拝読させて頂きました。
あなたが正しいと信じる道をしっかりと歩んでいって下さいね。
文豪 山本有三の言葉に
「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら 人間生まれてきたかいが ないじゃないか」『路傍の石』より
あなたの目の前には様々な道はあるのですからね。いろんな生き方があっていいのですからね。
質問者からのお礼
転落院様、お返事ありがとうございます。
喝!を入れて下さったようですね。
ありがとうございます。
意味不明ですか、申し訳ございません。
意味不明と思われたなら、それでも構いません。
宗教アレルギー?だから、宗教は禁止?
みたいな家です。
と知らずに生きてきましたが、宗教を学ぶこと、信仰を大切にすること、はダメじゃないし無理じゃない、と思ってしまったのです。
ダメなんです、でも私は仏様の道や教えに、そういう生き方があるのだなぁ…素晴らしいなぁ…と思ってしまいます。
支離滅裂かも知れません、意味不明かも知れません。
仏教も禁止な家のクセに、仏教を学ぼうとするなと言われてしまうかも知れません。
喝!と言われてどうなる?と思われるかも知れません。
それでも、私は私の中に仏様が訪れたことを否定出来なく、家族すら認めてもらえなくても、仏教やhasunohaとの出逢いを忘れたり無かったことには出来ません。
そんな私ですが、お坊さまから見て、あなたは間違っている、と思われるのなら、喝!を入れて、何故間違っているのか教えていただきたいです。
私は親の考え方を変える程の自信や力はありませんが、自分の考え方なら変えられるのではないかと…思いたいし…信じたい。
虐待が連鎖していく、と言われたりしても断つことが不可能じゃないように、信仰心を持つなという連鎖も、私の中では断てると思っています、他の人がどうかは分からなくても。
身勝手かも知れませんが、私は信仰の自由がない環境で育てられても、信仰する気持ちや心が失われた訳じゃない、と思ってしまいましたし、気付いてしまいました。
でも、それはダメなことと、お坊さまに言われたら、もしかしたら諦めるのかも知れません。
私は私の家の考え方で生きていかなきゃならないなら、そうするしかない…のかも知れません。
仏教の教えが素晴らしいと感じた自分、その自分を尊重したいと思っていますが、尊重し続けることを「今のうちに、もとの鞘に戻りなさい」と思われるお坊さまがいらっしゃったら…考え直さなきゃならないのかな…と…
でも、そう言われても一度宿った火は消せない…のです。
私は、やはり信じる道を進みたい…
進みたい…し…進むと思います。
なので、意味不明と思われるかも知れませんが、喝!と思われるならご助言いただきたいと思っています。
不快に思いをされたなら、すみません。
信じる心は、やはり捨てられないです。
すみません。
仏教の教えを大切にしたいです。
問い。
信じる道を進むことは、時と場合によっては、罪となりますか?
この短い問いを、もう一度、質問させていただくことにします。
すみません、質問しようと思いましたが、質問がいっぱいの時間なようなので、もう少ししてから、もう一度、質問を書かせていただきますね。
Kousyo Kuuyo Azuma様、お返事ありがとうございます。
支離滅裂な文章を読んでいただき感謝致します。
何が言いたいのか自分でもうまく説明いかないので、後て、豊島語→日本語版に書き直したにも関わらず、またお坊さまからこのコメントに対してお返事が届くとは思っていませんでした。
いろんな捉え方があるのだなぁと染々思います。
分かり易くご解答いただき、びっくりです。
言おうとしていたことに翻訳されています…
ありがたいです。
自分らしく生きる…うちでは滅茶苦茶難しそうですが、過去より自分らしく生きる努力をしたいと思います。
仏教を知らないままでいるのは勿体ないので…
がんばります!!!