人生が無駄に終わりそうです。
はじめて質問させていただきます。よろしくお願いいたします。
私は、何のために生きているのか分からないまま生きています。これと言った夢もなく、恋愛もできず、ただ時間だけを重ねて50歳になりました。
「せめて死ぬまでには」と思っていましたが、それまでの時間はあまり長くはないそうです。進行ガン。5年生存率は28%。
それを知らされてもショックはありませんでした。執着するモノがないからだと思います。
病気になったことより、自分の人生の虚しさが悲しいです。50年も生きてきて、執着するモノがないのです。残りの時間に何をしたいのか、何のために治療をするのか、この期に及んでも私には分かりません。
このまま時間を無駄にして終わることになりそうです。こんなの人生に、なんの意味があるのでしょうか。
自分自身で答えを見つけるべき問題なのでしょうが、あまり時間がなさそうなので、ご助言をいただきたく、よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死について学ぶ。
質問読ませていただきました。
人は生まれたら、必ずいつか死を迎えます。人生の生き方もそれはそれは難しいでしょうが、死に方というのもとても難しいものです。死の恐怖を前にして、冷静さを保てない人も珍しくありません。
仏教では、死を迎えるときの心持ちを大切にします。なぜならその心持ちによって来世に生まれる場所が決まると説くからです。
何かに執着したり未練を残して亡くなると、それに縁した場所へと引っ張られます。多くの場合、仏教で言う「苦しみの境界」へと引かれてしまうでしょう。
しかし、臨終の際に心安らかにお題目を念じることができれば、必ず苦しみのない境界に来世は生を受けるのです。
宗祖であられる日蓮大聖人も「先ず臨終の事を習って、後に他事を習うべし」とおっしゃっています。それほど死をどのように迎えるかというのは、大切な事なのです。
UKOさんは執着するモノがないとのことですが、執着するモノが無いことに執着していませんか?
それでしたら、今からでも遅くありません。仏教を学んでみて下さい。何故自分は人間として生まれて、どうすれば次は苦しみのない世界に生まれられるか?その答えが見つかるでしょう。
そしてそれを見つけられたとき、UKOさんの人生は何もない人生ではなくなります。
むしろ、とても有意義で人生の先にある希望に満ちた、光溢れるモノとなるでしょう。
もしよければ、メールでも結構ですのでご連絡下さい。
何か少しでも参考にしてみて下さいね。
追記
ご返事ありがとうございます。仏教を学ぶ上で一番大切なことは、自分が信をおける師僧を探すことです。
仏教の概念や思想や言葉というのは、本を読んで独学しても間違ってとらえがちです。難しい上に、考えようによってはどうとでも理解できてしまうから、自分本位の解釈を突き進んではまさに新興宗教となりかねません。
僧侶とはもちろん書物や文献で勉強しつつも、自分の師僧から、脈々と受け継がれる口伝や伝承、化儀や日常の言動を通して仏法を体得していくのです。「ご法門は毛穴から入る」と言われるのがまさにそれです。
たとえば、ご実家で信仰していた宗派はありませんか?もしくは、近くに少しでも縁のあるお寺はありませんか?
もし何もないというのであれば、ハスノハのご僧侶でも結構でしょうし、未熟ではありますがメールを頂ければ私でも何か力になれるかもしれません。
ご自分では実感がないかもしれませんが、今まで長い間お仕事を頑張ってきましたね。それは回り回ってたくさんの人たちの生活を支えてきた、社会に貢献してきたということです。さらに、あなたが納めた税金は公共の事業や公務員の活動の糧となり、子供達の学費になってきたのです。また、あなたの納めた健康保険は病で苦しむ人たちを治療するために役立ってきたのです。あなたの納めた年金はお年寄りの方々の生活に無くてはならないものなのです。
あなたのおかげで数え切れない人たちが支えられてきたのです。
今まで本当にありがとうございます。
そしてこれからもよろしくお願いします。
そのためにも今はご自身の治療に専念してくださいね。
あなたのために、そして、これからも支えていくたくさんの人たちのために。
それにね、縁があれば年を取っても恋愛はできますよ。
質問者からのお礼
藤川 誠海様
お返事をありがとうございました。
執着するモノがないことに執着しているのではないか。
目から鱗が落ちるとは、このことか!と思いました。
なるほど確かにそうかもしれません。「執着するモノがない」それこそが私の心にあり続け、時に気楽に、時に空しくさせているモノなのかもしれません。
しかし・・・「執着するモノがない」に執着しなくなったら、私の心には何が残るのでしょう。
仏教を学ぶことで、執着するモノがなくなるのでしょうか。
執着するモノの代わりの何かが、心に生まれるのでしょうか。
執着するモノがなくなった先に、なぜ人間として生まれてきたのかを知ることができるのでしょうか。
仏教はどのように学べは良いですか。
不勉強でお恥ずかしいのですが、思い当たる方法が「書籍を読む」くらいしかありません。
今まで何も仏教について学んだことがない人間に適した方法や書籍などがあれば、ご教示いただけないでしょうか。
お手数をお掛けいたしますが、よろしくお願いいたします。
三宅 聖章様
お返事をありがとうございました。
なるほど確かに、細々ながら税金は納めてきました。 医療費は自分でも使ってしまいますが、保険料も支払ってきました。
それだけで、少なくとも社会的責任は果たしたと言ってよいでしょうか。
個人としては何か成し遂げることのないような、名もなき一人一人の力で、社会は維持しているということなのですね。
藤川 誠海様
追記をどうもありがとうございました。お言葉に甘えて、メールを送らせていただこうと思います。
よろしくお願いいたします。