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様々な思想の中でどの道に進めば良いのか

回答数回答 1
有り難し有り難し 17

こんばんは。
以前に質問させて頂きましたが、またこちらで質問させて頂きます。

私は現在、社会人をしながら様々な哲学や思想について勉強してきました。
勉強をする理由は、様々な思想がある中で、真理(正しいこと)を知りたい、あるいは自分の納得できる考え方を見つけたいと強く思ったです。
そして、これまで学んできた中で、仏教の考え方(特に空の思想)が最も真理に近いものだと考えるに至りました。
これ以上は、学問ではなく座禅などの修行をしないと真理は分からないと思っています。

しかしながら、修行の道に踏み出すことにもためらいがあります。
理由としては
・社会人としての現実の生活があり、それを捨てて修行の道に入ることは現実から逃げているのと同じではないかと考えること。
・出家して何かしら悟りのようなものを開いたとしても、後の生活がつまらないもののように予測してしまうこと。
・仏教の教えが一番真理に近いものだと思うが、自分が惹きつけられる思想が他にあり、そちらの教えの方が自分が納得できるのではないかと考えること。
(具体例 三島由紀夫から西部邁先生に連なる保守主義、フライトからラカンに連なる精神分析、キルケゴールやカントなどの実存主義的哲学、大本開祖の出口王仁三郎に代表されるスピリチュアリズム)

これらの理由があり、様々な思想のどれにも惹きつけられて、どれかに決めて一歩を踏み出せていないのが現状です。

また、仏教の教えの中でも様々な考え方がありますが、私は最近ご活躍されている南直哉和尚の本に非常に納得させられることが多いです。
特に、この前出版された「超越と実存」という本の中の、親鸞と道元についての文章には深く納得させられました。(どちらも、超越的存在を排除しつつも、実存を受容するための思想として紹介されていました。)
しかしながら、批判をする方もいます。

このように、様々の思想の中で混乱しているのが現状です。
お坊さんにお伺いしたいのは、「私の文章を読んでどう思われるか、私はこのままでいいのか、それとも何かを変える必要があるのか」ということです。
現在、28歳ですが、17歳から今までずっとこのような思想的混乱状況から抜け出せていません。
このまま人生が終わるかもしれないと思うと発狂しそうです。
何でも良いので、何かアドバイスを頂けたら幸いです。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

禅はあらゆる宗教の中で唯一の思想や主義・思考ではない宗教。

道を究めると、理屈がいらなくなるものです。
理論武装やカッコイイ哲学も不要になる。
今あること、今来っていること、今体感されていることにいろいろおまけをつけなくてもよくなる。
人間ってあとから何かを言っているってわかりますか?
町で人とぶつかったとしても「ドン!」だけ。
あとから、すみませんでしたとか、スマホ見ながら歩いているんじゃないとか、どっちが悪かったとか。
そういう理屈をこねます。
ドン!
そこに傷つくものも減るものもないさまがある。
人間はこの自己の身心に自分という意識が立ち上がるとその自分意識を中心に物事を眺めるようになる。
スマホでラインやツイッター、インスタ、フェイスブック、ゲームなどのアプリを起動すればそれが立ち上がった状態になる。
禅仏教は、そのオレオレアプリ・自分アプリの起動以前の本来の自己。
坐禅して、自己の想念に影響受けないように過ごして自分を見つめていく中で、思考ではない脳内周波数がある。そこをサーチ、そこにリンクして、脳内モードが思考・分析・哲学・思想モードではなく、事実モード、感受モードになる。
たぶん、これをよんでも 理解するだけで私の申し上げるところの感受モードはわからないと思います。だから、仏道修行というものがある。
理屈で悟れんならすごい指導者がちょいとなんか言えばみんな悟っちゃいましょう。
そんな人はいない。
自分が本当に求めれば言下において頓悟することもありましょう。
聞いたり、思惟したり、修行して実証して初めて手にするものです。
蕎麦やラーメンをうってみてください。
思い通りにはならんものです。
この自分ですら人間は自分の思い通りにならない。
だからこそ、やりがいがある。
自分の思い通りにしようという言う周波数ではなく、
自分という意識の立ち上がりのないところ。あらゆる念は一念に過ぎない。
どんな高尚な理屈も一念なり。
その一念を最優先するのではない生き方がある。
思考ファーストではない生き方。
自分ファーストではなく、事実ファースト。
初めに事実ありき。
初めに言葉ありきということは絶対にありません。
「ドン」とぶつかったときは良しあしも苦楽もなくただ「ドン」というところがある。
この画面から目を話して周りを見てごらんください。
そこに「あなた」はいない。「あなた」=自分意識の立ち上がり無しで出会っている世界がある。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

丹下覚元様
ご回答ありがとうございます。
誠に丹下様の言われる通りだと思いますが、何点か疑問があります。
・悟ったお坊さんは、その「言葉や思考の入らない状態」をずっと保ったままでいられるのか?日常生活に戻るとまた思考してしまうのではないか?
・そのような体験をした後は生活に変化が生まれるのか?
・「言葉や思考の入らない状態」は日常生活において何かを判断する際の基準になり得るのか?
ということです。理屈っぽくて申し訳ありませんが、どうしても納得しないと行動できない性格のため、ご回答頂けたら幸いです。よろしくお願いします。

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