この状況をどう解釈したら、前進できるでしょうか。
2017/5/27と同様の内容になるかもしれませんが、お許し下さい。
あれより、2回挑戦いたしました。2018年の時には、僅かながらも光明が見えました。
しかし、今回の試験では、前回より遥かに及ばず、むしろ初めての受験時の成績の方がが良いという体たらくでした。
学習の時間も前回ご相談した時よりも若干ではありますが、量・質ともに増やすことができたにもかかわらずです。
この結果をどう見るべきか、混沌としております。
初志貫徹という言葉が虚しく思えてなりません。
今までの努力は、無意味とは言いませんが、意味があるとも言えなくなっております。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
資格の勉強をされているのですね。
それは向上心があって良いことだと思います。
お釈迦様は言いました。「努力することは生きること。努力しない人は既に死んでいるのと同じ。」(法句経)
ただ少し疑問も感じます。
何のための資格なの?
2〜3年間取れなくても生きることに問題のない資格ならそれほど重要では無いのでは?
むしろその時間を大切な家族の為に使った方がいいのでは?
あるいはボランティアでもした方が社会の為になるのでは?
向上心を持って勉強することは良いことなのでそれはそれで続けて欲しいのですが、資格やそれで得られる名誉的なものにこだわり過ぎてもっと大切なものを大切にできていないようでは本末転倒ですからね。
気持ちをリラックスして、今一度自分にとって優先するものは何か、周りを見渡してみてはどうでしょうか。
まあ、たった一度の人生ですから何かで名を上げようと野心を持つことは当然のことではあるのですけどね。
また、仏教的には大切なのは結果よりも過程です。
試験結果よりも日々の1時間の勉強を知識を得るという喜びを感じて楽しみながら続けましょうね。
質問者からのお礼
三宅様
ありがとうございます。
学生(法学部)卒業後、会社人間一本でした。同期の中で一番早く、リストラされたのが、この資格取得のきっかけでした。閑職の中で、会社のために尽くしたこと以外何も残っていないことが残念でした。ならば法律関係で社会に貢献できるものはないかと思いこの資格取得に出会いました。(当然、同期への見返し的な野望もありました。)
お言葉の通り、5回の失敗を重ねる内に手段が目的となっておりました。合格が「最終目標」となっていました。まさに本末転倒、これでは万が一合格しても、傲慢な人間になっていたかもしれません。
今一度、この資格取得への思いを見つめ直し、日々の考え・行動を修正していきます。「試験結果よりも日々の1時間の勉強を知識を得るという喜びを感じて楽しみながら続け」てみます。