人生は楽しく生きるべきでしょうか?
私は生きてて良かった、と思ったことがありません。生きることは根本的に辛いことで、理不尽だけどそれに耐え抜くことが人生だと思います。
けれど、人と話しているとこのような姿勢は異端なのかも知れない、と考えるようになりました。
辛いことがあっても何かしら楽しみがあって、生きてて良かったと思って生きる方が多数派だし、生きる楽しみを見つけるべき、というプレッシャーを最近感じます。
しかし、そういう多数派の人たちは人生の苦しみを誤魔化すのが上手なだけで、人生が苦しいことには変わりはないと思うのです。
そういう風に自分を誤魔化すことは必要なのでしょうか?
それとも人生は楽しいものなのでしょうか?
回答していただけると幸いです。よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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無理やり楽しむ必要はないと思います
人は何の為にこの世に生を受けたのか
私が好きな言葉は『魂の洗濯』というものです。
貴女の人生に楽しみがなく、辛く厳しいものであるのでしたらそれは大変な修行をされているからでしょう。
周りの方が楽しんでいるのもそれもまた修行の一環かと思います。
しかし、同調圧力と申しますか無理矢理楽しんでいるフリをする必要はありません。
周囲が楽しいから楽しんてる風を出すのは本心とはかけ離れているので却って苦痛になるかと思います。
周囲を見すぎているとより苦痛になるかと思います。
同時に楽しいことがない、苦痛にみちているという点ですがそこに関してはそういったご自身のフィルターで物事を見ているからです。
お釈迦様は
我々の心次第で世の中は良くも悪くもなる。
良いものを見て良いと言える素直な心が失われ天の邪鬼のように悲観しているからいつまでも苦しみから抜け出せない。
と仰ってます。
ですから、無理に楽しむ必要もないし、理由を探して悲観する必要もございませんよ。
楽しんでる人の裏の顔など、想像せずそれをそのまま受け入れたり、ご自身が素直に楽しいと思えばそれはその瞬間は楽しいですので、そこから先を考えずに素直に物事を受け止めてみてください
なんらかの刺激が必要
人間は結局、大なり小なり、なんらかの刺激に反応して、心身を動かし生きているのです。
苦しみも楽しみも、本質的には「ウズウズ」の苦の刺激です。
赤ちゃんの口もとにおっぱいを近付けると、赤ちゃんが泣く場合があります。
大好きなおっぱいか近付いてうれしいはずなのに泣く。
それは、「飲みたい」という嬉しい楽しみの刺激も、本質的には苦痛だからかもしれません。
つまり、楽しみを激しく求めている人々は、そのような刺激に依存しているだけで、刺激の内容によって偉いとか凄いとかはないのかも。
あなたには、あなたが求める何らかの刺激があり、他の人には、その人が求める何らかの刺激がある。
形が違うだけで本質的には大差ないのだと思います。
「何もなくなりゃしないのさ
形が変わっていくだけさ」と、
あるアーティストの歌詞にあったのを思い出しました。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
物事が辛い、苦しいといったフィルターを付けているという言葉にはっとしました。今までは楽しんでいる人達はフィルターのせいで正しく物事を見ていないのでは、私は正しい世界を見ている、と根拠なく思っていました。しかし、フィルターを付けて世界を歪めて見ていたのは私の方だったかも知れません。
無理に楽しく過ごす必要はない、と言っていただけたので、自分をポジティブな見方に変えるつもりはありませんが、悲観的に受け取りすぎていないか、被害妄想に取り憑かれていないか、苦しくなった時は気をつけようとおもいました。
また、そのことを指摘されてから、私が無意識に周りの人は私に敵意を持っていて、私を傷つけるもの、と思っていることに気づきました。私はなかなか自分を出さず人と仲良くなれないのですが、そういう苦しいフィルターを外し、もっと人を信頼して関係を築くと良いかも知れない、と思いました。
真剣に回答をくださったお坊さま方、ありがとうございました。