参拝に行けなかった意味、何かの暗示?
何度も何度もすみません、くりりんです。
先日は「お寺からパワーを授かりたい」という相談にたくさんのアドバイスをいただき、ありがとうございました。
自分なりにも色々と振り返ってみたのですが、「お寺を参拝することで、モヤモヤした気持ちがスッキリし、新たな気分になるのなら、参拝した方が良いのではないか」という結論に至り、参拝に行こうと決めました。
しかし、その直後からなぜか巡り合わせが悪く、行けないのです。
行こうと思った日に大雨が降ったり、急な予定が入ったり…
昨日も、今度こそは!と思った矢先、家族が体調を崩しその看病で行けませんでした。
ここまで来ると、何かの暗示というか予兆のようなものすら感じてしまいます。
今日はそのお寺の方角に向かい、お祈り(拝礼)をすることにしました。
こういう場合、気持ちをどのように持つのが良いのでしょうか?
また、そのお寺のある方角に向かい、拝礼するだけでも意味はあるのでしょうか?
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「努力もせずに神頼み(お寺なので仏頼み?)ばかりしやがって」思われてしまうかもしれません。一方で、ここ数年、何とか自分の人生をより良いものにしようと努力してきたつもりです。しかし、うまくいかないことが続いています。もう万策尽きた感じで、神様仏様に頼ってしまっている感じです。
何か良いアドバイスがあればよろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
いつでもどこでも誰でも
参拝に行けなかったのは残念ですね。
でも、暗示とかではなく偶然だと思います。
スピリチュアルな意味付けを期待するのは、迷信への執着やプライドの煩悩(特別な価値・待遇を期待)につながる可能性があるので、注意が必要です。
参考までに、仏様と親しくなる方法を書きます。
私たちが阿弥陀仏を拝むとき、阿弥陀仏はそれをご覧になっています。
私たちが南無阿弥陀仏と阿弥陀仏の名前を称(とな)えるとき、阿弥陀仏はそれを聞いてくださっています。
私たちが阿弥陀仏を念じる(想う)とき、阿弥陀仏も私たちを念じてくださっています。
そのようにして、私たちは仏様と親しくなれます。
ですから、場所に関係なく、南無阿弥陀仏と口に称えて阿弥陀仏の力で極楽浄土への往生(人生のハッピーエンド)が決定すると思いましょう。
人間が作ったお寺よりも、阿弥陀仏などの仏様自体を拝むことが大切ではないでしょうか。
仏様を拝むことは、いつでもどこでも誰でもできます。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
スピリチュアルなものだけに頼らず、邁進していきたいと思います。