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なぜこんな試練ばかり起きるのでしょうか

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なぜこんな試練ばかり起きるのでしょうか。

5歳の息子が入院しています。
元々食が細い上にすぐ体調を崩しお腹を壊します。ここ数年毎月医者に罹っています。
かかりつけ医に相談し、手探りで現在まで育てて来ましたが、2ヶ月前から食欲が激減し、そして今月も当たり前の如く体調を崩し、そして悪化、先日入院しました。
胃腸炎らしいですが、なぜこうなったのかは不明です。

今回入院している病院では息子の漠然と続く体調不良の原因を探ってくれるようですが。

そこで質問なのですが、なぜこのような試練ばかりずっと続いているのでしょうか。
私も頻繁に通う病院への付き添い、看病疲れ、繰り返される終わりの見えないこの生活の日々に心を病み、昨年から診療内科に罹る始末。
子育てに嫌気がさして、もう子供を施設に預けてしまいたい、離れて暮らしたいと思ってしまい、それを他人に漏らしてしまうようにまでなってしまいました。

なぜこのような試練が続くのでしょうか。いつまて続くのでしょうか。

子育ての楽しさ、幸せからどんどん遠のいていく心…
このままこんな生活が続くのなら、早く人生を終わりたい…そう思う日もあります。

助けて欲しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

続いてはいないと気づくことから

うちも子供が言葉が話せず言語支援の学校に行っております。
「あー」とかしか話せませんので、いろいろ困ることがあります。
支援学校に行きますともっと大変な方々もおられます。
比較はできません。
いわゆる「普通」である事が望ましものでしょうが、わが子の事実は変わりようがありません。
誰の子であっても、親にとって「わが子のその事実は変わりようがない」ということはまず心にとどめておいてください。
そして、過ぎたことは溜まっていないし、背負ってもいないし、続いてもいないということを知りましょう。
昨日は食べられなかった。
昨日は病院だった。
でも、毎回そこでそのことにあなたがちゃんと出会わないといけないのですよ。
どこかにネガティブイメージをおまけとしていつも背負っているんだと思います。
私は何も不平も言わずに今日も言語支援学校に連れて行ってくれるワイフを尊敬しています。
たしかに、昨日は大変だった。あの場は大変だった、ということはあるでしょう。
ですが、今日はありがたいことに今日なのです。
今はありがたいことに今なのです。
今新たに何かが起こっているときにさっきまでの事はどこにもないのです。
ワイフも仏教や禅を学んでいますから、今あることを今あることのままに「続いている」こととはせずに対処しているのです。
空から20個ボールが落ちてきたとします。
7つめが落ちてきたとき、前の6個の事はもうないのです。次の8個目以降の事はまだ起こっていないのです。今、ここであなたがこの文章を読んでいる時が13番目であるとして、、、。
そこにはさっきまでの事も何もなしに、このことがただ行われているのです。
他の事を交えずして、ただ今のことをそのままに授かっているのが人間の生活の実相です。
そこに不幸とか、病院だから嫌だとか、本当はそういうことすらない、無かったということに気づけると、今のように苦しみや不幸が継続しているような気持ちに騙されなくなりましょう。
わからなければいつでもお電話ください。
子育てのみならず、人生を快適に、安楽に過ごせる方法こそが仏教です。
今も、一つ一つのボールが落ちてきています。
たまには棚から牡丹餅も落ちてきます。
本当はとっても親子で楽しい時間帯なのに悪く受け止めてしまっていたことがあるかもしれません。
一つ一つの授かりをお大事に受け取り、大事にお過ごしください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。返答を頂いてすぐには、なかなか落とし込めずにいましたが、ひと月ほど経ち、ようやく理解できたように思います。毎回、毎日が「初めて」の事。決して前と同じではない、常に新しい事が降ってきているのでしょうか。本当は負の連鎖なんて無くて、日々起きる事は新しい授かりものなのですね。そう解釈しました。

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