全て運命で決まってる、を言い訳にしちゃう
はじめて質問させて頂きます。
※タイトルの文字制限で文末が可愛い感じになってしまって申し訳ありません。ホントは(〜してしまう)にしたかったのです。
それは置いといて…
振り返れば大小様々な後悔の多い人生です。
ex)就活を真面目にしなかった、当たりつき自販機で当たったのに迷いすぎて時間切れになった、ケータイの星座占いを真に受けて告白して振られた…等々
ですが、考えてみると「他の選択肢を選べばよかった…」というよりも「その時はそれしか絶対に選べなかった」という思いが大きいです。ある時から、それが運命だったんだな、と考えるようになって後悔の濃度は薄まりましたが、新しい問題も出てきました。
たとえば、今僕は契約社員として働いてますが就活もしています。金銭的にも将来の事を考えると切羽詰まった状態で早く抜け出したいのですが、「お前本気で就活してんのか?」と問われると素直にはいとは答えられません。どうしても動けないのです。
ここで「どうしても動けないのは、まだその時じゃないから、そういう運命だから」と考えてしまう自分がいます。
全ての行動に「運命の言い訳」を当てはめてしまうのは良くないと思いますが、全ての行動に当てはまってしまうのが「運命の言い訳」なのです。
以前、運命を信じるか友達に聞いたことがあります。
友達は「俺は産まれた時から全て決まってるとは思わない。運命は自分で決める」と言いました。
その時僕は「友達は運命を信じないという運命に産まれたんだな」と思いました。
お坊さんは運命についてどのような解釈を持っていらっしゃるのでしょうか、またどのように向き合えば良いのでしょうか。
長ったらしい文章で、抽象的な質問ですが、ご回答頂ければ幸いです。
ありがとうございます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「全て運命で決まっている」は安易な現実肯定論
こんにちは。亀山純史と申します。
確かに、過去の出来事や過去の判断に対して、「その時はそれしか考えられなかった。」という見方はあるでしょう。私自身も、自分の人生を振り返ると、「あの時あのようにしておけばよかった、とは思うが、当時は私自身も若かったし、出来なくても仕方がなかったよなぁ。」などと思うことはあります。しかし、このような見方は、「過去の」出来事や「過去の」判断に対してです。「今の」出来事や、「今の」判断、そして、「将来の」出来事、「将来の」判断に対してではありません。もしも、今私が為していること、あるいは将来のことも運命で決まっているとしたら、私たちの「意志」は、私に与えられた‟運命”というプログラムに従って自動的に動き、そして行動を起こすだけだ、ということになります。しかし、そのような見方は安易な現実肯定論でしかありません。安易な現実肯定論は、物事の因果関係を軽視することに繋がるでしょう。たとえば、今年も大きな自然災害のために、何名もの尊い命が奪われています。そのときに、「お亡くなりになった方々は、そのような運命だったんだ。」と私たちが判断したら、どうでしょう。亡くなられた方の命は、今後の防災対策には全く寄与することはないでしょう。
以上が私からの回答になります。ご参考になさってください。
質問者からのお礼
お返事ありがとうございます!
安易な現実肯定論というのは僕の中で新しい言葉でしたが、例えが分かりやすくて参考になりました。
何でもかんでも運命だと言い訳するのはよそうと思いました。
ありがとうございます。