幸せとは
幸せとは自分でつかみとるものでしょうか?それともどこからか舞い込んでくるものなのか、お坊様はどうお考えでしょうか?
ある映画では、結果は前者でも後者でも同じだと。ある心理士のかたは幸せを求めている時点で不幸だと、他人に幸せを与えることで結果的に自分に返ってくるとおっしゃっていました。
私は分からなくなってしまいました。幸せになりたいが、幸せって何なのかも。おそらくこれが幸せって理想はあるのですが、その理想とは大切な人を見つけることです。そしてゆくゆくは結婚し子供をもつことが夢とか目標ではあります。
ある人たちは結婚が幸せとは限らないともいう人もいれば、最高という人もいます。でも子供がとても可愛いのです、歳のせいかもしれませんが、守りたいし大切にしたいと思います。
よって、自分は幸せを求め、幸せはいいものだと考え、自分でつかみとるものだという方に比率が高いのかとは思っています。
でもつかみとるってどうやるのかわかりません。教えてください。幸せは自分でつかむのか、それとも勝手にくるのか?どうやってつかみとるのか。
哲学的で難しい質問かもしれませんが、詳しくご教授ください。お忙しいとは存じますがよろしくお願いいたします。
統合失調症という病を患っています。その理由で現在無職となっています。ですが福祉系の通信大学生です、学習はしてます。性格はよくわかりませんが積極的でもあれば大人しいかもしれません。
嫌なことは抑圧されることです。 あと悩みが多いです。恥ずかしい悩みもあります。これも自分を押さえつけてる煩悩かもしれません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【剃髪】欲しがることの放棄
"幸せとは自分でつかみとるものでしょうか"
"どこからか舞い込んでくるものなのか"
それは、なにを”幸せ”とするかで変わってくるのでしょう。
仏道修行の入門者はまず剃髪をするものですが、あれは【名聞】【利養】【勝他】の3つの髻(もとどり)を剃り落すことを象徴しています。「髻」とはちょんまげみたいなものだとお考え下さい。つまり、地位、名誉、財産、優越感等、ふつう誰もが欲しいものを欲しがる事を放棄するという事からはじめる、ということです。みんなが喉から手が出るほど欲しがるものを、欲しがらないことによって獲られる安楽を仏教は目指します。
つまり、仏教の目指す”幸せ”は、欲しがることを手放すことによってつかみ取りに行っているともいえるし、手放すことによって舞い込んでくるともいえる。ポイントは、仏教の教える”幸せ”は、ふつうみんなが求める”幸せ”とは違うという事ですね。
‟幸せ”とは後になってから思うもの
こんにちは。亀山純史と申します。
もう、明日からは12月ですね。今年も残すところ1か月になり、今年一年を顧みる時期にもなりますね。
さて、誰しもが、「‟幸せ”でありたい」という思いを持っていると思いますが、「その‟幸せ”とは何か」と言えば、それは人によって異なります。この「異なる」とは、同じ事柄、出来事に対しても、ある人はそれを‟幸せ”と思うでしょうし、別な人はそれに対してあまり幸せだとは思わない、ということです。たとえば、同じ地域から、同じ登校手段で同じ学校に登校し、同じクラスで同じ勉強をし、そして同じ部活動をしていても、その学校生活に満足している生徒もいれば、不満や不安を抱く生徒もいるわけです。経験していることはほぼ同じでも、どうして人によって違うのでしょうか。それは外部からの刺激は同じでも、能力や性格、あるいは家庭環境などによって、それをどう受け止めるかは、人によって違うからですね。
そして、今幸せだと思っていても、今の状況が原因で、将来、不幸なことが起こる場合もあるでしょう。逆に、今不幸だと思っていても、将来、幸運な結果がもたらされるかもしれないのです。中国の故事に「人間万事塞翁が馬」という言葉があります。人生における幸せ・不幸は予測し難いものですから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないという言葉です。
そうすれば、今の私たちが、自分の‟幸せ"のためにすべきことは、仕事や勉強など、今の自分がしなければいけないことに意識を向けて取り組んでいくことではないでしょうか。そうして、‟幸せ”とは、後になってから「あの時は幸せであったなぁ。」と思うものではないかと、私は考えています。
私の死はいつ訪れるかはわかりません。しかし、もし死の直前に私に意識があるならば、「様々なことがあった人生だったが、御仏の教えに触れることが出来た、幸せな人生であった。」という思いを持つことが出来ればいいなぁ、と思って、日々精進しています。
質問者からのお礼
幸せを手放し結果として幸せをつかんだりすること。仏教の教えで、私には仏教のことは全然わからないのですがそういう考え方があるということはとても新鮮で為になりました。ありがとうございました。
そして、人生の最期やターニングポイントなどに振り返った時、幸せな人生だったと感じる事が幸せである。という言葉は、私には考えつくことはできませんでした。人によって幸せは違うし、求め方も違う。深いです。
ニュースでこのサイトのことを知りましたが、そこで求不得苦という言葉を知りました。私はその状態であると思います。仏教の無心は私にはできません。仏教の仏様の第3の目、つまり全てを見る目は人の悪い所、良い所を見ていますが、私は仏教に熱心な方ではありません。でも仏様の第3の目は私の救いになります。また、キリスト教の教えだったかはさだかではありませんが、信ずるものは救われるや、例えば嫌な相手の幸せを願う事で救われる教え、悪い相手を許す力はとても哲学的で為になります。
最後に、回答してくださったお坊様達に感謝と、お坊様達の幸せを祈ります。